<secret letter・第2章 懺悔>

白い病室に、白いベッド。

何もかもが白い空間の中に妻が寝かせられている。

ゴクンと唾を飲み込み、手の平は汗でベタベタだった。

あんなに妻の存在を疎ましいと思っていたのに、

いざ目の前に意識が戻らない妻の姿を突き付けられたら、

男というのは情けないもので、うろたえてしまうのだった。

「郁子、どうして?」

そう項垂れ、呆然とする僕に看護師が冷たく、

「別室で先生からお話がございますので・・・」

と一礼して出ていったのだった。

先生からお話、ってなんだよ。

妻の姿に後ろ髪をひかれながら僕は部屋をでて、

看護師に促された部屋へと入ると、そこには白衣を着た医師が座って待っていた。

座ったままで僕を見上げた医師は僕と同じぐらいの歳だろうか・・・

眼鏡越しに僕を見る瞳の色が微かに動いた。

「奥さんの病状は極めて・・・」

その言葉から始まった妻の命の期限の短さに、

僕はただ黙って聞いている事しかできなかった。

「どうして今まで気がつかなかったんですか?」
「もう少し早く連れてきてくれたら・・・・」
「日頃、奥さんは苦しそうな素振りをみせませんでしたか?」

医師の言葉はことごとく僕を打ちのめすのに効果的な役割を果たしていた。

なぜなら、どの言葉も僕が妻の傍にいなかったことを知らずに発しているというのに、

こんなにも僕を責めることに成功しているのだから・・・

これなら機関銃で撃ち殺された方がどんなに楽なことだろう。

言葉という鉛の玉が僕の身体に何ヶ所も穴を開けていった。

「すみません。気がつかなかったんです・・・・」

医師は深い溜息を吐くと、「それでは治療方法ですが・・・」と、

話を変えるのがうまかった。

絶望的に近い妻の寿命に医師は延命治療を進めてくる。

もちろん僕はそれに頷いて、その部屋をでていった。

『もって・・・半年・・・・』

医師から言われた言葉を復唱してみて思わず身震いをした。

いつも僕を待っていた妻がいなくなる?

そんなこと考えられなかった。

どうして?どうして?どうして?

それしかでてこなかった。

僕よりも先に妻が死ぬ?そんな莫迦な・・・・。

天罰を受けるのはこの僕の筈である。

地獄の業火に焼かれて苦しむのは僕でなければならない筈。

それなのに、何故妻が・・・

何かに背中を押されるようにして廊下を歩いて行くと、

そのまま妻の病室にいつの間にか着いていた。

『今は薬で眠っていらっしゃいますが、病院に搬送された時はすごい苦しみようで』

そう話していた看護師の瞳は、何かを知っているかのように僕に冷たかった。

仕方がないだろう。

妻が倒れても、さんざん鳴っていた携帯に出ることなく、

愛人と暮らして夢の中にいた男に、

誰が温かい言葉など掛けてくれるだろうか。

確かに僕が浮気していることなど看護師は知らないだろう。

でも、僕から漂ってきた女の匂いがすべてを物語っていたのかもしれない。

彼女が僕を離したくなくて絡めてきた身体には、

彼女がいつもつけている香水の匂いがした。

その匂いをつけて登場した僕に何があったのか、

勘のいい看護師はすべてを悟ったのかも知れなかった。

翌日には妻の目は覚めていた。

僕が、恐る恐る病室のドアを開けると、

窓を見ていた妻がくるりと振り返る。

嬉しそうな目をして振り向いた瞳が一瞬凍りついていた。

まるで、扉を開けたのが僕ではいけないような、

そんな顔だった。

「あなた・・・・」

妻は僕から視線を外すと、その行き場のなくなった瞳をもう一度窓へと向けている。

「郁子・・・」

話ができる立場にいないことは承知していたが、

僕は今までの贖罪をしたかった。

だから、妻の傍から離れる事はこの先ないことを誓ったのだ。

でも、やはり妻は一言、

「いいのよ、気にしないで。今まで通りあなたがしたいようにしてくれたらそれでいいの」

にこやかに笑みを浮かべて、もう一度振り返った顔に嘘はなかった。

「本当はこのままあなたに迷惑がかかるのなら離婚を考えていたんだけど・・・」

「そんな!」

「治療費だって保険でなんとかできるし、貯金もあるし」

「貯金?」

「えぇ。あなたと私の貯金。私があなたと結婚して貯めたお金よ。あなたの分と私の分があるの。きちんとわけてあるから心配しないで」

几帳面らしい妻の言葉に僕は違和感を覚えた。

浮気している夫にも貯金をしていた?

ありえなかった。いくらなんでも夫に甘過ぎるだろう。

僕の中で何かが信号を送っていたけれど、

でも、妻が「離婚する」という衝撃的な言葉を吐いたものだから

それは打ち消されてしまっていたのだった。

妻はいつでも優しかった。

その妻を思えば、夫に貯金を残していくということは

有り得るかもしれないといきついたのである。

穏やかな妻の顔を正面に捉えて僕は離婚の意思がないことを伝えると

妻はただ一言「そう」とだけ言って、蒼白い顔を僕に見せて柔らかく微笑んだのだった。

「郁子・・・」

この時の僕は、郁子が何を考えているのか掴むことができなかった。

だが、果たしてこの時の郁子だけだろうか?

彼女が何を思い、何を考えて生きていたのか。

それを僕は考えた事があっただろうか?

今までも郁子の事を理解しようとしていただろうか?

いや、ないに違いない。

いつも自分の都合のいいように考えて、

妻が苦しむ姿をみないフリをしてきたのだから。

僕に愛人がいると判って、郁子はそれでも平気な顔して見送ってくれていた。

本当に僕を愛していたのなら、そんな事ができるわけがないって

だから郁子はもう僕の事を愛していないんだと、そう勝手に解釈して、

だから僕は・・・同じような顔をした女を愛人にしたのだから。

どこから間違い、僕達はこうなってしまったのか・・・。

僕が愛人をつくったのが発端だったのか、

それとも、郁子の僕を見る目が彫刻の女神のように色を持たなくなったからなのか・・・。

それはきっとあの日、七年前にこの病院と同じような白い空間の中で

同じように医者から冷たく宣告された僕が、

壊れてしまったからかもしれなかった・・・。
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第三章・告知へつづく