<恋慕・10 終章>

『愛したいっていう気持ち・・・ただその人を見て湧き上がってくるもので、それがなくなってしまったらそれはもう愛ではないんじゃないの・・・?努力して『愛する』ということを『愛』とは呼ばないんじゃないの?』

僕が彼女から聞いた衝撃の言葉・・・。

確かに彼女の言う言葉もわかるんだ。

でも・・・何かが違う。

「努力をして私のことを愛するなんて・・・そんなのおかしいわ」

「なら今の貴女のご主人に対する思いは、昔と変わらない思いを持続できているんですか?違うでしょう?色んな事に躓きながらそれを克服してきた筈です。知らない者同士が出会って、姓を一緒にして一つの家庭を築いていく。そんなに簡単なことじゃない。8年間という月日の中で、きっと貴女は努力をしてきたんでしょう?そのことに気づいてもらえない寂しさが貴女を襲ってしまったから、貴女は愛することがわからなくなって、努力することに意味がないと思ってしまったんだと思う・・・」

「・・・・・」

静かに聞いている彼女の方が年上のはずなのに、

まるで今は怯える子供に話しているような錯覚を覚えた僕だった。

「確かに貴女は沢山の愛情をご主人に与えてきたんだろうと思う。でもそれに気がつかないご主人を貴女はそれでも嫌いになれない。だが、努力をするのも疲れてしまった。でも、放置してしまった愛情はそのままなんですよ。終わりを迎える事も出来なくって、ずっとそのまま漂流するんです。こんなに貴女はご主人に対して愛したい、愛されたいって願ってる。それは努力を続けなければできないことでしょ?無意識のうちに相手にこうしたい、こうされたい。こうなるためにはどうしたらいい?って思う感情こそが「愛」だと思うし、それは今動かなければもう帰ってこないかもしれない「愛」なんですよ。それでもいいんですか?」

失くしてしまう愛情に初めて危機感を感じたのかもしれない。

彼女の白い手が震えだしている。

この目の前の彼女は、もう僕を好きだと嘘を吐いた彼女ではない。

ただ、愛することに疲れて、でも愛されたいと願っている僕の同僚でしかない。

やはり・・・この役目をするのは僕しかいなかったのだと確信してしまう。

「いま・・・追いかけなければ・・・ちゃんと家に戻って話す時は「今」しかないんです。努力する愛情があるとわかっただけでもいいじゃないか。追いかけるんだよ!いますぐに!」

「でも・・・」

「迷っているうちに時間は過ぎて行くんだ!思ったことを口にすればいいんだよ。貴女が一番欲しいものは何?手に入れたいものは何?躊躇う前に動くんだよ。じゃないと本当に手に入れたいものがその指の隙間から落ちて消えてしまうよ?」

これが効いたのかもしれない。

目の前に座っていた彼女は、一瞬だけ苦しそうに顔を歪めるとなんとも言えない笑みを浮かべて席を立って言った。

「ありがとう・・・」

「いいえ・・・・。早く行ったほうがいい。ご主人の携帯に電話して、もう一度逢うんだ。僕の事は気にしなくていい・・・。ただ、今までのようにはいかないけれど、それでも普通に同僚として接してくれたらそれでいい」

小さく頷いた彼女は店の扉を開けると僕の方を振り向くことなく行ってしまったのだった。

何かを期待していたわけじゃない。

彼女の嘘を見抜いた瞬間からこの時がくることに、いつもビクビクしていた。

遅かれ早かれこうなることがわかっていたんだ僕は・・・。

だから辛くはない・・・・。

自分で決めて彼女をここまで導いて、そして離れる決心をした。

ご主人の元へと走っていく彼女を見て傷ついて、

店の中の鏡に座っている僕を見つけた時、

その傷の深さが顔に表れていることに再度、驚いた。

未練たらしいと思われても仕方ない。

本当は走っていく彼女の二の腕を掴んで「やっぱり行くな」って止めてしまいたい。

それならどうして自分から彼女の背中を押す役割をしたのか・・・。

それはきっと耐えられそうもないから、だと思う。

これから先、彼女が見ているものが僕自身ではないと知っていて付き合いを続け、

僕と一緒にいるのに居る筈のない幻影を彼女はずっと追い続けるのだ。

そんなことあってほしくない。想像したくもなかった。

だが、きっとそうなることは目に見えている。

簡単に踏ん切りをつけられる程度の思いなのだと言われたら、

それは絶対に違うということも断言できる。

簡単に思い切れるのなら伴侶がいる人を思ったりしないのだ。

だからきっと僕はずっとこの先も彼女のことを愛おしいと思うだろう。

この気持ちは誰にも犯すことができない領域。

たとえ、恋慕う彼女が僕のものにならなくても思い続けることは自由なのだから。

彼女が8年間、浮遊し続けた寂しさの海に僕はこれから独り浮かび続ける。

今までもそうであったように、これからもずっと・・・。

それは果てしなく広く深く、群青色をした感情の海。

でも、もう二度と彼女は僕をそこから救ってはくれないだろう。

彼女が去った扉を見つめ直して僕は深い溜息をひとつ吐き出した。

その溜息の存在を彼女には永遠に教えられない。