<恋慕・9>

「どうして追いかけないんですか?」

僕は数メートル先に座っている彼女の背中に近づき思わず声に出してしまっていた。

その声を聞いて驚いた顔をした彼女が振り返って僕を捉える。

「どうして?」

ここにいるの?

そんな言葉を飲み込んだ彼女は、細い涙の跡を手の甲で拭っている。

「さっき、君の実家に向かうところだったんだ。そこで街角で偶然歩いているのを見かけて・・・。っで、きっとご主人と逢うんだろうって、そう思ったから後を尾けた」

不思議そうな表情を隠さない彼女は、まだ僕が目の前にいることが信じられないのだろう。

さっきまでご主人が座っていたであろう席に僕が座ると、

ようやく顔を引き締めて、さっき僕が口走った言葉の真意を問いただしてきたのだった。

「何を言っているの?どうして私が主人を追いかけなくていけないの?」

さっきまでとは違うはっきりとした口調で自分の意思を伝える彼女は

僕の前では、やはり仮面をかぶったままの女優に見えた。

「どうして・・・嘘をつくんですか?」

「・・・・・うそ?」

「そうです、嘘です」

こう切り出したが最後、僕達がむかう終着駅も既にそこまで差し迫っている。

今まで気が付いていて、気がつかないフリをして

そして言いたくなかった言葉を口にする時が来てしまった・・・。

その時が永遠に来なければいいとも思っていた。

この人がいつまでも嘘をついていてくれたらいいとも思っていた。

だが、やはり夢はそう長くは続かないらしい・・・終わりの時が来たのだ。

そして僕は覚悟して唇を開いた。

「君は・・・いえ、貴女は今でもご主人のことを愛しているんです。僕の事を好きだと言いつつも貴女の心を支配していたのはご主人でした。僕と逢っていてもご主人の事が頭から離れないから最後の一線を越えられない。僕の事を見つめていても、その瞳は僕の後ろにいるご主人を見つめていたんです。
寂しい、寂しい、寂しいって何度も心の中で繰り返している間に、いつの間にか自分の中のご主人に対する愛情を見失ったように錯覚してしまったんですよ。そして寂しさから身近にいた僕の事を好きになろうって・・・そしてご主人と別れる材料を作ったんです。貴女はご主人が素直に離婚に応じなかった時の為に僕を用意したに過ぎないんですよ。
一緒にいて寂しいのならいない方がいい。いっそのこと別れてくれたらって本心とは逆の事を思うようになっていってしまった。
どうにかして埋めたかったんですよ。ご主人に対する一方通行的な愛を。愛されていないのなら離婚してしまおうって、自分に対して無関心のご主人に反乱をしたかっただけなんです。
でも、一度言ってしまった言葉は元には戻らない。後には引けなくなってしまって・・・でも貴女は、もう一度ご主人が別れたくないって言ってくれるのを待っていたんだ・・・。
でもご主人は貴女の寂しさに気がついて、自分では埋められないだろうって解釈してしまって・・・貴女の事を愛しているのに・・・貴女を自由にしてあげることにしたんです。
どうして自分達のことなのに、どうしてわからないんですか?こんなにも貴女はご主人を求めてるじゃないですか!そしてご主人も貴女を決して失くしたくなかった筈です。
その涙はご主人がいなくなる現実に耐えられなかったから流れたのでしょう?
まだ、貴女は愛しているんですよ、ご主人のことを・・・・」

まさか彼女の心の扉を僕の言葉の鍵で開けるとは夢にも思っていなかった。

僕は真実、彼女の事が好きだったから・・・。

目の前で笑ってくれる顔も、周りの事に気配りしてくれる姿も、

そして・・・何より嘘でもいいから僕の事を好きになったと言ってくれた「声」も。

それなのに僕はその声を失わなければならない。

その「声」が作られたものだとわかってしまったから。

「貴女は・・・帰るべきだ。ご主人はあなたの事を今でも愛してますよ。ちゃんと貴女は愛されてます。大丈夫だから・・・自分の本当の気持ちを伝えるべきです」

「・・・・っ」

何かを言いかけようとした彼女はそれを口にすることはなかった。

ただ、一滴の涙を頬から伝わせてポタリと落とし、視線は窓へと移している。

どのぐらいの沈黙が流れたのだろう、時計を気にしてはいなかったからわからないけれど、

それでも数分は流れていたに違いない。

その沈黙に僕が我慢できなくなった時、彼女がポツリと呟いたのだった。

「いつから気が付いていたの?」

その言葉に僕は困ったような笑顔を向けて、

「・・・・・たぶん、最初から・・・・」と遠慮がちに口にした。

この僕の言葉に彼女はハッとした顔になり、深く溜息を吐いたのだった。

「そう、そうだったの。最初からあなたはわかっていたの・・・だから私があなたを好きになったと言っても、あなたは私に手を出さなかったのね・・・」

伏し目がちにしていた瞳を真っ直ぐに僕に向けて、

僕の予想が当たっていることを肯定したのだった。

それは他のどんな言葉よりも残酷だったけれど、

やっと呪縛から解き放してくれた呪文のようでもあった。

「あなたの言うとおりだわ。私は主人のことを何も理解していなかった。私が離婚してほしいと言えば、どうしてこんなことになってしまったのかを真剣に考えて、そして考え抜いた後で私の事を迎えに来てくれると、どこかで期待していたんだわ・・・。でも、主人はそうはしてくれなかった。彼の事を何一つ理解していなかったのは私の方よね・・・。挙句の果てにはこんなことになってしまった・・・笑えないわ・・・」

手渡された離婚届の署名の欄を指でなぞりながら

彼女は今にも泣きだしそうになっていた。

そんな彼女を見ていられなくなって思わず、

「僕が今からご主人を捜して連れてきますから。だから、貴女はここで待っていてください」と言った僕。

「いいのよ、もう・・・今からじゃ遅いわ」とそれを遮る彼女。

「何が遅いんですかっ!努力しないままで諦めないでください!」

そう言い切った僕の顔を驚いた顔をして見つめてくる彼女。

何か僕はおかしなことを言ったのだろうか・・・?

そしてこんなことを訊ねてくる彼女に初めて僕は彼女の間違いに気がついたのだった。

「愛とは努力をするものなの?」

「え・・・?」

何を言っているのかと僕は耳を疑った。

当たり前じゃないかと大きな声を出してしまいそうになっていた。

愛に対する見解の相違。

それこそが彼女の間違いだと知った時、それを僕が教えると

恋慕った人の緩やかな巻き毛が驚きに揺れて、

初めてご主人が出て行った店の扉を振り返った彼女がいた。

それは僕が彼女を失った時となっていった・・・。