<恋慕・6>
永久凍土のような、妻の冷たい横顔に入る隙間を与えられなかった私は、
話合いを数日延ばす約束をとりつけるのがやっとだった。
その数日間、何をするのか・・・
それは妻とのことを真剣に考える時間にしたかったのだ。
私にも考える時間が欲しかった。
別れてほしいと言われて、
当然だが、「はい、そうか。別れるか」というわけにはいかない。
私の両親にも話さなければならないし、
何より私たちの間には子供もいるのだ。
そんな簡単に事がすすめられるわけがなかった。
よく結婚なんて当人同士が決めて、さっさとしてしまえばいい、って思う人がいるかもしれない。
だが、そうはいかないのが現実だ。
いろいろなものが絡み合って結婚は成り立っている。
両親だったり、親戚関係だったり、
だから、離婚もそれなりの順序を踏んでなさなければならないと私は思っている。
そして子供がいれば、離婚となるとその養育に関しても細かく決めていかなければならない。
私にとって、もしかしたら唯一の子供になるかもしれない我が子の行く末を
私はまるで、もう離婚してしまうことが確定しているかのように案じていた。
私達二人が離婚(わか)れてしまったら、あの子はどう思うだろうか?
きっと離婚してしまった私達を恨んで生きるようになるかもしれない。
何より、他の家庭でやれていることがやれなくなることが可哀相で、
そう思ったら離婚をしてはいけないんじゃないかという思いが湧き上がってきた。
翌日、荷物を持って玄関から出ていこうとする妻に、
「どこに行くんだ?」と訊ねてみると・・・妻はサラリと、
「実家にいます。私の両親には話してあります」
そう冷たく言い放って背中だけをみせて、なるべく私とは視線を合さないようにして、
それ以上は何も言わずに出て行ったのだった。
その左手には子供の指が絡み、決して私に渡すまいとする頑なな意思表示が刻まれていた。
今年、小学校に入学したばかりの息子はしっかりと妻に繋がれ、
まるで言い含められているかのように同じく私の顔を見ようとしない。
息子という存在が、私と妻がまだ繋がっていることができる唯一の証だということ。
その絆さえも失くしてしまったら、本当に取り返しのつかないことになってしまう。
私は不意に思いついた考えで不安に陥り、
思わず急いで二人が出て行った玄関の扉を開けて呼び止めようとしたのだった。
だが、私の思いは言葉とはならずにその場で自然消滅してしまう。
なぜなら、今さっきまで張り詰めていた筈の妻と息子の横顔が、
お互いの顔を見て笑い合っていたからだった。
数メートル先を歩いている二人が、
こんなに遠い存在だと気がついたのはこの時が初めてだった。
短いようでとても長い距離。
私が今から埋めようとしている溝は、この数メートルよりも長く深く、
そして・・・決して交わることのないものへと変化してしまった海溝のよう。
なら、ここで諦めるのか?と叱咤されるかもしれないが・・・
私はここ数年、あんな顔をした妻を見たことがないのを思い出したのだった。
あんな風に笑うんだったか?
もっと静かな笑みをたたえる女じゃなかったか?
それまで私が記憶の中に閉じ込めてきた妻が実は偽物だったことに気がついたのだった。
私が知っている妻。
それは・・・妻に対して無関心になる前のしおらしい妻であって、
あんなに快活に笑顔を振りまき、
しかも私との離婚の話をしているというのに、
あんなに楽しそうな笑みを浮かべることができる、そんな見知らぬ女ではなかった。
あれは・・・既に私の知っている妻ではないのか・・・
結婚してからの8年間。
見て見ぬふりを決め込んだ結果がこれなのだから、どうしようもない。
「離婚はできない」と妻に言える立場にいないことを
あの二人の笑顔で気付かされた土曜日の朝。
恋慕った頃には思い描くことができなかった結末が、
いま重く、私の両肩にのしかかろうとしていた。
永久凍土のような、妻の冷たい横顔に入る隙間を与えられなかった私は、
話合いを数日延ばす約束をとりつけるのがやっとだった。
その数日間、何をするのか・・・
それは妻とのことを真剣に考える時間にしたかったのだ。
私にも考える時間が欲しかった。
別れてほしいと言われて、
当然だが、「はい、そうか。別れるか」というわけにはいかない。
私の両親にも話さなければならないし、
何より私たちの間には子供もいるのだ。
そんな簡単に事がすすめられるわけがなかった。
よく結婚なんて当人同士が決めて、さっさとしてしまえばいい、って思う人がいるかもしれない。
だが、そうはいかないのが現実だ。
いろいろなものが絡み合って結婚は成り立っている。
両親だったり、親戚関係だったり、
だから、離婚もそれなりの順序を踏んでなさなければならないと私は思っている。
そして子供がいれば、離婚となるとその養育に関しても細かく決めていかなければならない。
私にとって、もしかしたら唯一の子供になるかもしれない我が子の行く末を
私はまるで、もう離婚してしまうことが確定しているかのように案じていた。
私達二人が離婚(わか)れてしまったら、あの子はどう思うだろうか?
きっと離婚してしまった私達を恨んで生きるようになるかもしれない。
何より、他の家庭でやれていることがやれなくなることが可哀相で、
そう思ったら離婚をしてはいけないんじゃないかという思いが湧き上がってきた。
翌日、荷物を持って玄関から出ていこうとする妻に、
「どこに行くんだ?」と訊ねてみると・・・妻はサラリと、
「実家にいます。私の両親には話してあります」
そう冷たく言い放って背中だけをみせて、なるべく私とは視線を合さないようにして、
それ以上は何も言わずに出て行ったのだった。
その左手には子供の指が絡み、決して私に渡すまいとする頑なな意思表示が刻まれていた。
今年、小学校に入学したばかりの息子はしっかりと妻に繋がれ、
まるで言い含められているかのように同じく私の顔を見ようとしない。
息子という存在が、私と妻がまだ繋がっていることができる唯一の証だということ。
その絆さえも失くしてしまったら、本当に取り返しのつかないことになってしまう。
私は不意に思いついた考えで不安に陥り、
思わず急いで二人が出て行った玄関の扉を開けて呼び止めようとしたのだった。
だが、私の思いは言葉とはならずにその場で自然消滅してしまう。
なぜなら、今さっきまで張り詰めていた筈の妻と息子の横顔が、
お互いの顔を見て笑い合っていたからだった。
数メートル先を歩いている二人が、
こんなに遠い存在だと気がついたのはこの時が初めてだった。
短いようでとても長い距離。
私が今から埋めようとしている溝は、この数メートルよりも長く深く、
そして・・・決して交わることのないものへと変化してしまった海溝のよう。
なら、ここで諦めるのか?と叱咤されるかもしれないが・・・
私はここ数年、あんな顔をした妻を見たことがないのを思い出したのだった。
あんな風に笑うんだったか?
もっと静かな笑みをたたえる女じゃなかったか?
それまで私が記憶の中に閉じ込めてきた妻が実は偽物だったことに気がついたのだった。
私が知っている妻。
それは・・・妻に対して無関心になる前のしおらしい妻であって、
あんなに快活に笑顔を振りまき、
しかも私との離婚の話をしているというのに、
あんなに楽しそうな笑みを浮かべることができる、そんな見知らぬ女ではなかった。
あれは・・・既に私の知っている妻ではないのか・・・
結婚してからの8年間。
見て見ぬふりを決め込んだ結果がこれなのだから、どうしようもない。
「離婚はできない」と妻に言える立場にいないことを
あの二人の笑顔で気付かされた土曜日の朝。
恋慕った頃には思い描くことができなかった結末が、
いま重く、私の両肩にのしかかろうとしていた。