<姉妹・6 変貌>

満谷貴雄。それが、俺の名前だ。

もう教師はしていない。

人を殺そうと思っているのに、子供に道徳を教えられない。

道徳・・・辞書を開けばこう書いてあった。

『人として守らなければならない正しい道』

人を悲しませてはいけない。騙してもいけない。裏切ってもいけない。

ましてや人殺しなど、もってのほか・・・・。

人として守る事ができなかった奴らに道徳を持って対処するなど

そんなことできるわけがなかった。

だから、俺は計画をそのまま躊躇わずに行う事にしたのである。

でも、一つ問題があった。

もう一度、手紙を書いてくれる人物を捜さなくてはいけないのだ。

なぜなら、五年前と同じ字では亜希子の心の中を震撼させることはできないと踏んだからだった。

五年前と違う文字。違う人物がいる。しかも二人目も女・・・。

あの事を知っている人物が実行犯以外に少なくとも二人はいることになる。

そう感じた時の亜希子の心の中を想像するだけで、

俺の頭の中は面白い玩具を与えられた子供のように喜んでいた。

もう手紙を書いてくれるように彩香には頼めない。

俺達がいくら隣人だったとはいえ、

引っ越した俺が今でも彩香に連絡を入れるのは不自然だからである。

それに、この殺人に彩香を巻き込みたくないとも思っていた。

そんなある日、以前中学の教師をしていた時の教え子に道端でばったり逢っていた。

バッタリ逢った・・・。いや、違う。

向こうはそう思っているかもしれないが俺の方では違っていた。

計算して彼女の前に姿を現したのだ。

中学生の少女が教師に恋心を抱くのは珍しい話ではない。

その教え子もきっと、そういうほのかな気持ちを抱きながら

俺の事を見ていた時期があった筈である。

だから、きっと俺の申し出を断らないだろうと思っていた。

俺に好きな女がいて、その女の付き合っている男が駄目な男で、

その男の真の姿を見せたいのだと懇願すれば、

困っているかつての教師の役にたとうと、そう思ってくれるに違いない。

お人好しで、人情味が強い中学生だったのを薄っすらと憶えている。

この目の前にいる教え子が、あの頃と変わらずにいてくれることを強く望んだ。

津川理恵子。これが、教え子の名前だ。

俺の必死な姿に渋い顔をしていた理恵子が「仕方ないな」と言って承諾してくれた。

この時、どれだけホッとしたかしれない。

人間が書いた手紙とパソコンで打ち出した手紙とでは相手に与えるダメージは格段に違う。

二回目に理恵子に逢った時、

俺が書いた下書きをそのまま便せんに書き写してくれるように頼んだ。

そして出来上がったものを受け取り、

俺はそれを何枚もコピーして亜希子が勤める学校の教師たちへと投函したのである。

もちろん、亜希子の男に対しては時間差をつけて別のものも封入した。

それは・・・あのDVDと十年前に起こした亜希子と田宮由里のメールを

そのままインプットしたmicroSDを添えたのだ。

それが届いた頃を見計らって、

学校を休んでいた亜希子の前に俺は姿を現したのである。

「やぁ。君が以前住んでいたマンションに行ったけれど引っ越していたから、申し訳ないと思ったけれど、自宅に来てみたんだ」

両親がいない頃を見計らっての訪問。

「・・・・・」

インターホン越しに無言が続く。

「どうしたんだい?」

心配そうな声を響かせて、まずはドアを開けさせなければならない。

「何かあったのか?そういえば学校は?」

次々と亜希子を心配する声を優しくインターホン越しに囁いていると、

無言のままドアは開かれたのだった。

顔色の悪い亜希子に向かって、驚いた表情をしてすかさず甘い言葉。

「ダメじゃないか・・・何が顔色が悪い。病院に行こう。少しそこで点滴でも打ってもらって・・・」

こう、まくし立てる俺に亜希子は力なく首をふった。

「いいの。それで、満谷さんは何しに来たの?」

「いや・・・ただ顔が見たくなって・・・ダメかな・・・そんな理由じゃ・・・・」

まるで今でも君が好きなんだと言わんばかりの照れてる仕草に亜希子は戸惑っていた。

心を平常心にさせる天秤の釣り合いが取れなくなっているに違いない。

もうひと押しだと思った。

「何があったか知れないけれど・・・家の中に引きこもってちゃいけない。外にでてみよう。俺も今日は休みだし」

そう言って強引に亜希子の手を握って、外に連れ出したのである。

力ない足取り、どこか心を置いてきてしまったような自失感。

あと、もう少し。あと本当にもう少し。

本当に追い込むのはここからが見せ場。

はやる気持ちを抑えつつ、

俺は事件の場所となる歩道橋まで彼女を連れてくる事に成功していた。

その間、亜希子は一言も声を発しはしなかった。

そして俺も、亜希子を死へと誘うように優しく肩に掛けた手に力を込めた。

歩道橋に足を一歩掛け、後ろからついてくる亜希子を優しく見つめる二つの目。

その二つの目の裏側は、これから亜希子に降りかかる災難を早くも映し描いていた。

一歩また一歩、階段を上っている時、とうとう俺の口が開いたのである。

「・・・君は変だと思わないのか?俺が突然現れた事に対して・・・」

「・・・・・・・・え?」

それまで心に鍵を掛けていた亜希子の顔が、俺の一言でこちらの世界にかえってきていた。

心の病んだ者がいく世界にいた亜希子。現実逃避という現象。

そのすべてに当てはまる亜希子の顔に人間臭さが蘇ってきた瞬間だった。

「君は・・・俺が何も知らないと本当に思っているの?」

「・・・・・」

「松木涼香。この名前を口にしても、まだそんな顔がしていられるかな?」

「!」

目をいっぱいに見開いて俺を凝視している亜希子の顔には、もう死相がでていた。

「この十年長かったよ。君たちをどんな風に陥れ、苦しめ、そして最後にはどうやって死んでもらうのか・・・ずっと考えていた」

「まさか、まさかあなただったの?あの手紙も?」

「・・・・・・・だとしたら?」

そう冷たく言い切って俺は、流した瞳の鋭さで亜希子を殺せやしないかと心底思っていた。

「どうしてっ?どうしてそこまで!」

「・・・・だから俺はさっき君に訊いたろ?本当に俺が何も知らないと思っているのか、と」

「・・・・何を言っているの?何の事だか・・・・」

そう、うそぶく亜希子の顔にむかって俺は笑顔でmicroSDを携帯から抜き出した。

あっ!と小さく呟いて亜希子は両手で自分の口を塞いだ。

「これでもしらを切るのか?俺はすべてを知っていると言った。そう、すべてだ。きさまらが涼香にしたこともすべて!」

「・・・・」

黙ってしまった亜希子の顔にこれ以上話を続ける意味はもうなかった。

だからあの、最期の言葉を言ったのである。

「どうだ?すべてを失くした瞬間は?」

冷徹な顔をして、今まで以上の冷たい鬼の面をかぶっていたと思う。

「あれは、あなたがすべて?もしかしてあの五年前のことも・・・・?」

その答えを俺は、皮肉な笑顔を織り交ぜ得意げな顔で答えていた。

そして、亜希子が俺の腕を掴んできたのだ。

その瞬間を俺はずっと待ち望んでいた。

やっと、願いがかなう。

一人目を片付けることができる。

そう思いながら俺は、思い切り俺の腕を掴んできた亜希子の手を振り払ったのである。

一瞬だけ宙に浮かぶ亜希子の身体。

それは本当に束の間。

俺に伸ばした手は何も掴めないまま、そのまま下の方へとさがっていく。

ちょうど亜希子が落ちていく途中には人はいなかった。

だから、誰も亜希子の死への旅立ちを邪魔する者はいないのだ。

あの時の亜希子の顔を俺は一生忘れないかもしれない。

なぜなら一瞬、亜希子の顔が歪んだ気がしたから。

泣きそうに笑ったような気がしたのだ・・・・。

自分が騙そうと近寄った男の筈なのに、

知らない間に、こんなに上手く騙されていた。

自分の知らない男の顔をいま見た気がした。

優しい人の顔をした、鬼の顔。

心に深い傷を負わされ、立ち直れないぐらい痛めつけられた。

それが・・・・十年前にイジメ抜いた果てに死なせた少女の男だという。

信じられない。

こんなに時が流れたというのに、

いつまでも復讐心を燃やしていることの凄さ。

その信念の深さ。

どれほどの愛がそうさせているのか、

あの松木涼香のことをそれほど愛していたというのだろうか・・・・。

それとも憎しみが愛を越えてしまったというのだろうか・・・・。

自分の人生を捨ててしまえるほどに・・・、

もし、そうなら。本当にそうなら・・・・

なんて重い愛だろう。

人を殺してしまいたいぐらいに思い続ける事ができる愛。

そんな愛をあの子は受け取っていた。

私達はそんなあの子を疎ましく思い、殺したのだ。

だから・・・これは制裁なのだろう。

あの子の死が連れてきた罰なのだ。

亜希子が、落ちていく一瞬でこれだけの事を考えたかは判らないが・・・

覚悟をしたのだと思う。

もう自分は助からない。

たとえ、今助かったとしても、必ずこの男は触手を伸ばしてくるに違いない。

鬼の顔をしながら、まるで蜘蛛が巣にかかった蝶をジリジリと殺すように、

死なずにすんだ自分の命を再び襲うことだろう。

そんな顔をしている。

きっと、絶対に・・・・・。

そう、絶対に・・・・。

亜希子は、そのまま登ってきた階段の下まで落ちて行き、

もう二度とその両の目を開いて男を見る事はできなかった。

そして、満谷も亜希子の最期を見ることなく喧噪の中に身を隠していた。

誰もそこに男がいたことなど、

憶えている者はいなかった。

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<姉妹・7 核心>に続く。