<姉妹・5 鬼神>

「どうだ?すべてを失くした瞬間は?」

篠塚亜希子が歩道橋の階段から落ちていく前、

俺が亜希子に最後に言った言葉だった。

驚いた顔で俺を見上げ、

亜希子の顔が崩れていったのを今でも憶えている。

「あれは、あなたがすべて?もしかしてあの五年前ことも・・・・?」

「・・・・・・・」

肯定する俺の勝ち誇った表情に亜希子は呆然と立ち尽くしていた。

まるで当たり前のように俺はサングラスをかけ、皮肉たっぷりな笑みを浮かべて見せる。

この先に起きる殺人が俺の手で下されたと群衆に判らなくするために。

日曜日の賑やかな通りには人で溢れていたけれど、

都会の人波は知らない者のやりとりに無関心過ぎる。

通り過ぎた者がどんな顔をしていたかなど憶えてもいないだろう。

だから、俺はこの人で溢れている都会を亜希子の死に場所に選んだのだ。

誰にも見つからないようにその場から去るには人の中に紛れてしまえばいい。

鉄則だった。

亜希子と話していたことなど誰も見ていない。

そして階段にいた二人に関心を持つ者などいなかった。

ニヤリと笑って、俺の腕を掴んできた亜希子の手を思い切り振り払ったのだ。

小さな叫びと共に亜希子は階段から揺らめき勢いつけて最下段まで落ちていく。

途中、階段のどこかで後頭部を強打したみたいで、

その時には既に意識を失い・・・いや、命を落としていたのだろう。

その姿を目に留めることなく俺はその場から風のように去っていった。

地下鉄を利用し、できるだけ遠くへ・・・。

通行人が見ていたとしても、駅のトイレで着替えを済ませた俺は

さっきまで歩道橋にいた人物とは別人になっていた。

いそいで着用していた衣服をロッカーに隠し、

滑り込んできた電車へと姿を隠したのである。

電車の窓から、いま自分がいた街並みを見下ろしていた。

あのビルの向こう側できっと亜希子は人々に死に顔を見せているのだろう。

そう思ったら、自然と笑みがこぼれてきた。

長かった。亜希子を死に追い込むまで十年も掛かってしまった。

そして俺は流れる車窓にこの十年を思い出していた。

あの時、俺が亜希子のメールで得た情報はあれだけではなかった。

実を言うと、涼香の死の真相も見る事が出来たのである。

文字の羅列を見て「あぁ、やはり」そう思った。

涼香は・・・・自殺ではなかったのだ。

あの日、涼香が命を落とした時、あの二人が涼香を屋上まで追い詰めたのである。

中学・高校のイジメは陰湿で汚く、教師に判らない所で行われている。

それを察知する事は難しく、たとえ判ったとしても、

彼らの反撃は今まで以上に標的者に行われる。

イジメを無くしたところで別のイジメが起こり、それは際限なく繰り返されるのだ。

あの日も涼香はすべてに絶望を感じていたからか、

イジメから逃げる場所に屋上を選んでしまったらしい。

それを追いかける篠塚亜希子と田宮由里。

暴言や暴力。それならまだしも、二人は刃物を持ち出して

屋上から地上へ飛び降りることを強要したらしい。

もちろん、嫌だという涼香。だが、二人は・・・・

涼香が可愛がっていた妹を・・・小学六年の妹を切り刻んでやろうかと脅した。

自分のせいで襲われる妹。

妹思いの涼香なら、そんな想像さえも耐えられなかったことだろう。

その卑怯な二人に、いつかは自分も殺される。

そう思ったに違いない。

でも、自分がいったい何をしたというのだろう。

妹が巻き込まれるなど何をしたというのだろう。

殺されるだけのことを死ななければならない程のことを、

果たして自分はしてしまったのだろうか?

自分の恋人の事をみんなに話せないのは仕方のない事で、

それのせいで自分がこんな運命に立たされてしまったことなど

決して、絶対に恋人である俺には言えなかったことだろう。

助けてほしくても、助けを呼べない辛さ、悲しさ。

一言でも口から出てしまったら、きっと俺を苦しめてしまうに違いない。

そして望んでいない別れがやってくる。

愛している。彼を愛している。

でも、その愛している彼のせいで自分の運命を変えたなどとは言えない。

そのすべての闇から解放されるには・・・

「死」だけしかないと追い詰められていったのだ。

もっと早く、こうしていれば・・・

ごめんね。

俺の瞼の裏に、見ていない映像が流れてきたかのようにみえた。

女たち二人のメールのやりとりは、

あの時、ホントに死ぬとは思わなかっただの、

死んでくれてせいせいするだの、汚い言葉が溢れていた。

俺の中に隠してきた悪を呼び覚ますのに簡単な呼水となった。

許しはしない。絶対に殺す。

だが、楽には死なせてはやらない。

涼香が味わった苦痛以上のものを味あわせてから殺してやる。

今まで躊躇っていた殺人の幕が上がったのはこの時だった。

本当の本当は、このメールを世間に公表して、

司法の手に委ねるのがいいのかもしれない。

でも、それだと二人についた弁護士が、二人の罪を守り償わせようとしないかもしれない。

証拠がメールだけでは、やはり弱いのだ。

嘘だと冗談だと、証言されてしまったらそれで終わってしまうかもしれない。

そんなことはあってはならない。

しかも、俺の中では、もう二人の罪は死に値するものだと思っている。

たぶん、二人が裁判にかけられたとしても、死ぬことはないだろう。

なら俺の手で二人を人生という列車から突き落としてしまえばいいのだ。

幸せを味わった次の瞬間、落ちる闇の中。

俺の中に、もう理性はなく善は存在していなかった。

どんな事でもやれると思っていたし、

現に、俺はやってのけたのだ。

まず、俺は亜希子と別れなければならなかった。

このまま、俺が亜希子と付き合いを続けていたら、

「後々面倒な事になる」そう思ったから、だから別れた。

もちろん、最初から捨てるつもりでいたのだし、

別れる事に何の迷いもなかった。

だが、亜希子と別れる前に俺は伏線を張っておかねばならなかった。

亜希子の住まいを利用して、もし部屋が変わっていたら、

あの計画はまた違うものになっていたかもしれないが

だが、住所は変わらなかった。

当時、亜希子は両親と離れて一人暮らしをしていたのだ。

私立の大学に進学し、我儘なお嬢さんがしたいことといえば、

「まず親元から離れて一人暮らしをする」ことだったのかもしれない。

同じ街に親が住んでいるというのに、

金銭的に裕福な亜希子の家庭はそれを許していた。

まさか、自分達の娘があんな目にあわされるとは知らずに・・・。

俺は、亜希子と別れるときに合鍵を返していた。

だが、ちゃんとスペアキーを作って・・・。

そのスペアキーをどう活用したかは、もう察しのいい人は判っているかもしれない。

知らない男達に襲わせるために、鍵は必要だったのだ。

卑劣だと、最低だと、鬼だと、俺を罵るか?

でも、俺はそれをすべて承知の上でこの計画を立てたのだ。

男達はネットで集めた。闇サイトで簡単に集まった。

だが、男達は亜希子を襲ったとは微塵も思っていないだろう。

文章の書き方一つでこんなにも違うとは恐ろしい。

もちろん、闇サイトへのアクセスも亜希子のパソコンから行った。

あの計画が成功するかどうかは、確率は少なかったかもしれないが、

だが、男達は亜希子の部屋にやってきたのだ。

『三人だけエントリーできます。一年後、私の気持ちが変わっていなかったら、どうぞ鍵を開けて部屋の中にきてください。そしてどうか、私を・・・・・』

こんな趣味がある女なのだと思わせる事ができたかもしれない。

男三人はすぐに集まり、俺は亜希子を装って男達とメールをしていた。

一年後の日にち。鍵のありか。時間は夜中がいいということ。

それからビデオ撮影もお願いしたいこと。

『私』の顔がわかるように、

だが相手である男達の顔は判らないようにうまく映してほしいということ。

あぁ、そしてもう一つ。

一年後にもし三人が現れて『私』が驚いたとしても、それは演技だということ。

だってビデオ撮影をしているんだもの、演技はしないと・・・。

泣き叫んでも、演技だから気にしないで・・・

でも、うるさかったら殴ってくれてもいいのよ。

その方がリアルだし演出効果は抜群・・・。そして決め台詞は忘れないで・・・。

「騒いだら、殺す。もちろん、このビデオテープもDVDに焼いてばらまいてやる」

どう?これで・・・

それからそのビデオテープは鍵が置いてあった場所に置いておいてほしいの。

それでは、一年後。

あぁ、質問事項があったら今しかできないからどうぞ。

この短い文章が、まさか男が書いたものだとは思わなかったらしい。

しかも、亜希子のフリをして男達とメールをしていたのだから、

メールアドレスも彼女のものだったし、

尚更、信じたのだろう。

うまくいったかどうかは一年後。男達が部屋に行くかどうかも一年後。

そして、月日は瞬く間に過ぎて行き、

待ちに待った当日、男達は現れ、亜希子を襲ったのである。

俺は、部屋に男達が入っていくのを見届け、その場から去っていた。

ビデオに撮られていると知っていたからか、

亜希子は警察に被害届を出すことはしなかった。

そして、投函されていない手紙が亜希子のマンションに届く。

もちろん、DVDと一緒に・・・。

「このDVDは私の保険です。このことを警察に言ったりしたら許しません。何枚も焼いてあなたの人生を台無しにしてあげます」

この文章だけは俺が書く事はできなかった。

女の字で書く必要があったのだ。

この事件は亜希子に恨みを抱いている、

「女」がしたことだと彼女に思い込ませたかったのだ。

男の字だと、もしかしたら俺だと感づかれてしまうに違いない。

いや、きっと感づかれる。

だから、この文章だけは女の文字で書かなければならなかった。

それをお願いしたのは・・・・

当時、まだ十七歳になったばかりの涼香の妹・彩香に頼んだのである。

蝉が鳴く、夏の夕暮れに俺は彩香に逢いに行った。

太陽が傾き、美しい夕焼けが空一面を染めていて、

俺の影に彩香は隠れるようにしてすっぽりおさまっていた。

俺の話を静かに聞き、まっすぐな瞳で俺を見つめてくる。

その純粋な瞳に俺の汚さを見せる事がいけない事のような気がして

俺は一瞬、身じろぎをした。

「君にこんなことを話して、君は女の子だから俺がしでかした事を許さないかもしれない。でも、君にしか頼めないんだ」

罵声を浴びせられる覚悟をして俺は彩香の声を待った。

すると彩香は微笑を浮かべて、

「もう、忘れてるかと思った。あれから何の連絡もないし。満谷さんには満谷さんの人生があるし、それは仕方がないかなって思ってたんだけど、でも・・・計画はなされていたんですね。良かった・・・・・」

この卑劣な手段を考えた俺の手を彩香は迷わず握り締めてきた。

この涼香にだんだん似てきた彩香に、

冷たい軽蔑の眼を投げられたら本当はどうしようかと悩んでいた。

だが、そんな考えはいらないものだったらしい。

そりゃ、そうだろう。

一番、あの二人を殺したいと憎んでいたのは肉親である、この少女なのだから。

快く引き受けた彩香は、こうやって逢うのはこれきりにしようと呟いた。

「そうだね」

俺も小さく頷き、書いてくれた紙を持ってその場から風のように消えたのである。

そして・・・篠塚亜希子殺害の計画は、ここから五年の歳月を経て遂行されたのだ。

人というのは、忘れながら生きていくものなのだ。

自分が犯した罪も、自分の上に降りかかった災難も、

時間という尊いものが傷を癒していく。

その中で篠塚亜希子も「あの事」を忘れるように努力したのかもしれなかった。

教師という職にもつけ、あんな事があったとしても、

「自分が誰にも言わずにいたら、何も起こることはない」という安心感。

確かに、DVDは他人の手にあるのだろう。

でも、自分さえ誰にも、まさか警察になんか話せるわけがないが、

それさえしなければ、アレが公になることはない。

私さえ、大人しくしていれば・・・・。

そう思っていたのか、亜希子は静かに誰にも話さず生活していたらしい。

「アレ」から男と付き合う事も躊躇われていたのか、

そんな影も見せていなかった。

だが、やはり五年という月日が心の傷を癒したのかもしれない。

亜希子に新しい男が現れたのである。

俺は、この時を待っていたのだ。

亜希子が赴任した先は俺が元いた学校だったから、そこの先生とも今でも交流はある。

電話をしたり、酒を飲んだり、話の中身は結婚という二文字になる事も多かった。

「そういえば・・・・今度、先生同士が結婚するんだよね。満谷も今頃いれば、あの先生を争奪するのに加わっていたかもしれないな・・・・・」

「へぇ、そんなに美人なの?」

「まぁまぁかな。篠塚亜希子っていうんだけどね、歳は二十九歳なんだけど。もの静かでいい女なんだ。それを同期のヤツがさらっちまうんだもんな。やっぱり、女は最初から目をつけておかないと・・・・・」

「へぇ・・・・」

ここで、俺の中で鬼が囁いた。

『この時を待っていた』

一気に飲み干した酒の後味は、なぜか血の味がした。

それは、きっと俺が残酷な鬼になったからかもしれなかった。

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<姉妹・6 変貌>に続く。