<姉妹・3 秘密>

「お願い、殺して」

そう頼まれたから、殺したのか。

それとも、この十年という月日が俺の中で憎しみを

膨らましていったから殺してしまったのか。

今となっては判らない。

ただ、悔やむことはできる。

何に対しての後悔なのか。

それは・・・俺が彼女を守る事が出来なかったという事に尽きるだろう。

一人の少女をこの手で守る前に、愛しい命を失ってしまった事。

それだけだった。

だから俺は教師という立場を脱ぎ捨てる覚悟をしたのだし、

何より少女が死んだのに、あの二人が生きている事が許せなかったのだ。

私と少女は家が隣同士ということもあって、小さい頃からよく話もした。

彼女が高校三年生の時、俺は二十八歳。

既に中学教師になっていた。

少女の名前は・・・松木涼香。

夏に生まれたから、せめて名前だけでも涼やかに・・・

そう笑った少女の顔が今でも瞼の裏に焼き付いて離れない。

あの笑顔は永遠だと思っていた。

いつまでも自分の傍にあるものだと信じて疑わなかったのだ。

それなのに・・・悔やんでも悔やみきれない。

・・・回想は時に人を苦しめもする。

だが、その苦しみから逃れてしまったら俺は永遠に彼女を失くしてしまう気がしたのだ。

だから、このまま、もう少しこのまま十年前へとかえっていいだろうか・・・

十年以上前・・・そう俺は・・・彼女が高二の時まで、

大切にしたいと感じた事はなかった。

いつの間にか隣で良く笑う彼女を意識しだしたのは彼女が高三になったときだろうか。

結いあげる髪のしなやかさ。濡れたように見える若い唇。

そして、俺の指を遠慮がちに絡めとっていく指。

そのひとつひとつが愛おしくなっていった。

彼女が大人になり、俺へと近づいてくるのが楽しみになっていった。

それまで、別に恋愛をしてこなかったわけではない。

普通に大人の女に惚れもしたし、人並みに付き合いもしてきた。

だが、これほどまでに少女にのめり込むとは自分でも予想はしていなかった。

だが、少女はいつの間にか少女ではなくなっていたのだ。

少女の細く纏わりつく足には逃れられない何かがあった。

堕ちていくのに、そう時間はかからず、

切ない吐息は二人だけのためにあるのだと思っていた。

蝶が美しく舞うように、俺の腕の中にいる少女を

このまま隠してしまいたかった。

今では、その想いを貫いていたらこんな悲しい想いを抱かずにすんだのだろうか。

そう、思う。

亡くなる一週間前のあの時の笑顔のまま・・・

永遠に少女はいなくなってしまった。

俺の前からも、誰の前からも。

ただ、手紙を置いて・・・。

自ら命を絶ってしまったのだ。

「疲れた」

たった三文字の言葉に封じ込められた真実が何なのか知らないまま、

彼女が俺に何も言わずに死んだ事に対して恨み事を口にしたこともあった。

俺にも言えない何かつらいことがあったのか。

そう己の心を立て直し、彼女を想う為に彼女の部屋を訪れた。

少女が亡くなり時間が少ししか経過していないせいか、

主を亡くした部屋の中は少女の香りでいっぱいだったのを今でも憶えている。

吸い込むたびに矢が刺さったように胸が苦しくなっていく。

少女を亡くしたやり切れなさ、自分の不甲斐なさ。

その二つに押し潰されそうになった時、

少女が生前使っていた本棚の前に足が勝手に動いていた。

どうして何も言わずに死んでいったのか・・・

そればかりを思い悩んでいた俺に、まるで何かを指し示すかのように

カーテンの隙間から伸びてきた太陽の光にその本があたっていたのだ。

花柄のカバーが愛らしいその本を手にした時、

俺は微かに自分が間違っていたことを自嘲した。

本だと思って手にしたものは本ではなく日記帳だったのだ。

表紙を開けページを繰ると見慣れた文字が俺を襲った。

もう見ることはできないと思っていた彼女の文字。

それを見た瞬間、胸を掻き毟りたくなるほどの悲しみが溢れてきた。

高二の春から書きはじめた日記には、色々な事が書かれていた。

友人の事。受験の事。そして・・・・俺の事。

彼女と想いを通じ会えたのは高三の春のことだったから、

日記にも桜の花びらのシールが貼られていた。

それまでにも彼女の日記には想いを寄せる男の存在を書かれていたのだが、

それが俺自身だと気がつくのに時間はかからなかった。

それほど、誰が読んでも俺だと判る書き方で想いを強く記してあったのだ。

読むだけで幸せになれる書き方をしていた日記が、

灰色の雲を連れてきたのは

夏休みが終わった九月の文章からだろうか。

「おかしい。みんながおかしい」

その言葉から始まる日記は、

これから少女が命を絶つまで執拗に続けられるイジメの内容が記されていくようになる。

その間も彼女は俺との時間を作っていた筈なのに、

少女はそんな事が自身におこっているなど俺に一つも匂わさなかった。

俺に心配をかけまいとしていたのか、

それとも自分がイジメにあっていることなど知られたくなかったのか、

もしかしたら、教師の俺に打ち明けることでイジメに負けると思ったのかもしれない。

俺は一度たりとも「教師」として少女と向きあった事などないというのにね。

悲しみを堪えながらその日記を読み続けるには強靭な精神が必要だった。

彼女の「生」の声を聞いている。

俺が知ることのなかった真実を、少女を亡くした後で知らされる残酷さ。

この世の中にこれほどまでに酷い人間がいるのかと

絶望し、希望の光さえも見出せない少女の毎日。

そんな心の叫びが綴られている文章が進むうちに俺は一度日記を閉じてしまっていた。

いたたまれなくなって閉じてしまったのだ。

これ以上読むと少女の死が自分を離さないような気がして、

そして少女に死を与えた人物を一生憎んでしまいそうで・・・

怖かったのだ。

でも、きっと少女は俺に読んでもらいたいから

この日記のありかを光の道標で見つけさせたのだ。

たとえ、この先に書かれていることがどんな事実だったとしても

逃げてほしくなかったのかもしれない。

そう思い直してもう一度日記を読みなおすのに時間がかかってしまった。

苦しすぎた日々。

誰もかれもが敵になって、どうして一つの事柄がイジメの引き金になったのか

その理由を胸に秘めたまま逝ってしまった彼女。

最期のページにはこう書かれていた。

「私は死ねばいいのでしょうか?死ねば全てが真っ白になれるんでしょうか?
でも、私は死にたくないのに、どうして死なねばならないんでしょう?
私は弱虫で意気地がないのかもしれない。ただそれだけ。
彼女たち・・・・そうあの二人だけは決して許したくない。
篠塚亜希子と田宮由里。絶対に許さない・・・
親友という仮面をかぶっていただけの二人・・・
私に簡単に「死ねばいいのに」と言う二人・・・
この二人は・・・絶対に・・・私がいくつになっても・・・
いつまでたっても憶えている事でしょう・・・・・」

ページを持っていた指が微かに震えた。

この時、もし鏡で自分の顔を覗いたとしたら驚いたかもしれない。

なぜならきっと俺の顔には鬼が張り付いていただろうから・・・。

人間の顔をした鬼が俺を食いつくし、俺に成りかわっていただろうから。

怒りが俺を侵食し、憎しみの絶叫を上げさせていた。

日記を破いてしまいそうになる衝動をかろうじて耐えて

やっとのことで少女の部屋から出てきた。

少女の日記を片手に後ろ手に扉を閉めた。

そのパタンと音がした時、少女の部屋の隣の部屋がゆっくりと開いていく。

「彩香ちゃん・・・・・・」

愛しい涼香の妹だった。

秋に産まれて、紅葉の彩が美しかったから、だから彩香・・・

妹の名前を口にした時、涼香は本当に楽しそうに話してくれた。

自分よりも六歳も年下なのにしっかりしているのだと、

舌をだしながら微笑んでいた。

その涼香が愛した妹は涙を瞳いっぱいに溜めて俺に願いを託してくる。

「お願い。あの人たちを殺して・・・・」

そう言っていた。

ここで、すべての糸が繋がったような気がしたのだ。

あぁ、これは涼香が導きだした光の糸ではなかったのだと・・・

きっと、この目の前の小さな彩香が俺に託すために

仕組んだ罠だったのだと・・・。

あのカーテンの隙間も、

あの時間に俺が現れる事を知っていて、

カーテンの隙間をつくり、日記を読むように仕向けたのだ。

緻密に計算された光の演出を不審に思わなかったわけではない。

涼香の母親が彼女の部屋のカーテンを昼間に閉めておくなど考えづらいのだし、

日記というものが本棚にあるというのも疑うべき事象だった。

だが、そう思ったにもかかわらず、

俺は彩香が口にした言葉に力強く頷いていたのだった。

「あぁ、必ず」

悔しさで唇を震わす彩香にそう告げていた。

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<姉妹・4 理由>に続く。