<姉妹・1 忘却>

私が二十三歳の時におきたお話です。

中学の時に世話になった教師に道端でばったり会いました。

あの時から何も変わらない「先生」の姿に懐かしさを感じ、

私の方から近寄って行きました。

もちろん、極上の笑顔は忘れていません。

携えたまま「先生」の前へと立ったのです。

驚いた事に、彼は最初私が誰なのか判らなかったみたいでした。

名前を言うと「化粧をしていると判らないな・・・」そう言われました。

少しその教師に憧れを抱いていた私は、

「綺麗になったな・・・」というお世辞に気を良くしたんです。

そこが甘かったのかもしれません。

その日、私と教師はそれ以上何も話をすることもなく別れたんです。

「お元気で・・・」「君も・・・」そう言い合いました。

ですが、何日か過ぎたある日。

私が会社から家へと帰っている時にその教師が車で横に並んだんです。

ふと視線を車へと流すと、教師は窓を開けて笑ってこう言いました。

「ちょっと乗らないか?頼みたい事があるんだ」

「頼みたい事?」

少し躊躇いましたが、教師の車の後方には車が来ていましたし、

別にこのまま家に帰っても用事のない私は教師の車に身体を滑り込ませました。

この間は話さなかった思い出話が終息に向かうと、

教師は顔を真剣にさせて「頼みごと」を語り出したのです。

「君は口がかたいよね。だから、これから君に頼むことは誰にも言わないでくれないかな。君にしか頼めないし、僕は一人の女性を守りたいだけなんだ」

こう切り出されると思わず身構えてしまいます。

現に私も肩に力が入っていたな・・・、と思い出せるくらいですから・・・。

そしてこの時はただ聴いている事しかできなかったことも・・・。

下に教師の「頼みごと」を書いてみました。どうぞお読みください。

「私の勤めている学校にAという二十九歳の女教師がいる。二年前に赴任してきたのだが、このAの付き合っている男が鬼畜のような男なんだ。しかし、彼女はその事に気づいていないんだ。それをなんとかしたい。でも僕がそれを彼女に教えるわけにはいかないんだ。でも教えたい。それなら手紙を書けばいいことを思いついた。でも、それだと書いた字で僕だと気付かれてしまう。ここで君にお願いなんだが、僕が書く内容をそのまま君が書いてくれないかな。もちろんお礼はするよ。頼むよ」

教師は昔、生徒だった小娘に手まで合わせてこの続きを言いました。

「彼女は彼の事が好きだが、男の方は彼女の事は何とも思っていない。彼女の事はただ身体だけの付き合いだと言っていた・・・。」

この言葉を聞いてもまだ、私の中で先生の言う

「鬼畜」という言葉が当てはまりませんでした。

男が本気にしない恋愛など幾らでもあるし、

身体だけが目当ての関係も珍しくなかったからでしょう。

男と女の関係に口を挟むなど野暮な事を・・・

たぶん、先生の話を聞いた私の顔がそう訴えていたのかもしれません。

だから横にいる先生は急いで首を振ったのだと思います。

「違うよ。Aさんが危険なんだ。あの男は何度も女を泣かせているヤツでね、同じことをされて泣いてきた女達が沢山いる。何をされるかって?言いにくいんだが、ヤツは自分達の行為をビデオに録画して売ってるんだよ。そればかりか今度はそれを観た男がヤツに頼んで彼女を狙ってるんだ。それを教えてやりたいんだ。このまま彼と付き合っていたら大変な事になってしまうことを・・・」

先生は悲しそうに、でも彼女の事をちゃんと考えている事を必死に語ってきました。

「先生、その女の人のこと好きなんでしょう?」

思わず口にした言葉が図星だったようです。

先生は小さく頷くと、照れてもう一度「頼むよ」と言ってきました。

「仕方ないな・・・」

本当は代筆など断るつもりだったのですが、

この話の内容からして、この女性に危険が迫っていることは明白でしたし、

先生のひたむきな思いも心を打ちました。

ですから一度だけという約束でこの話を受けたんです。

手紙は後日、またこの時間に私に渡してくれるということで話がつきました。

車から降り、空を見上げると星が瞬いていました。

そして、それから三日後、また私の隣に先生の車が横付けされたんです。

この時は窓から手紙の原紙を渡されただけでした。

読んでみると、やはり先生の話がそのまま告げ口のような形で文章化されていました。

『このままでは君は奴らに食いものにされてしまう。ここで別れた方がいい。君の身体が危険なんだ・・・』

書いていて同じ女性として胸がムカムカしてきたのを今でも思い出せます。

この男達を何とかしなければ!

彼女の目を覚まさせなければ!

ですが、残念な事に女性の名前は書いてあったのですが、

肝心の「奴ら」の名前は書かれていなかったのです。

書いていてくれていたら、なんとか調べる事ができるのに!

まぁ、調べてもその先何ができるというものでもありませんが、

やっぱりこんな男達の顔を一度は見てみたいって思うでしょう?

だから、ちょっとだけ先生の勤める学校にフラッと立ち寄ったんです。

もしかしたら、その男達とすれ違うことができるかもしれない。

名前は知らなくても、先生と同じ学校で働いていると言っていました。

もちろん、女性Aさんも同じ学校です。

篠塚亜希子

彼女の名前です。亜希子だからAさん。

思わず代筆をしていて笑ってしまいそうになりました。

先生って案外、単純なのね。

含み笑いをしつつ学校の校門をくぐってみると、

前の方から髪の長い女性が生徒達と歩いてきました。

卒業生の私は会釈をして通過した女性に笑顔を見せました。

その女性を見たことのない私が見ても、物静かな人だと判りました。

白いブラウスに濃紺のスカート。

女教師の清潔そうな印象は生徒達に良い影響を齎して(もたらして)いるようにも見えました。

その時、生徒の一人が「篠塚先生・・・」と声を発したのです。

思わず、身体に電気が走ったようになって思わず後ろを振り返りそうになりました。

いけない、ここで振り返ってしまったら・・・

一瞬のうちに頭の中が働いて私は身体を強張らせました。

校門を出た生徒を見送って「篠塚先生」は私の横を通り過ぎて行きます。

その背中がどこか苦しそうで悲しそうに見えたのは、

やはり私があの先生の話を聞いたからかもしれません。

この女の人が・・・

私の思惑を背中に受けて彼女は階段を上り大きな溜息を吐きました。

その溜息の真意は何を語っているのか・・・。

きっと私が書いた手紙が彼女の元に届いた事が原因になっている。

私の中で申し訳ない想いが膨らみを増したのですが、

まさか彼女を引き留めて話すわけにもいかず、

そのまま彼女の姿が視界から消えるまでずっと立ち尽くしてしまいました。

そう彼女が職員玄関に消えるまでの数分間、ずっと。

この時、やはり彼女を引き留めていれば良かったと後悔したのは三日後のことです。

その日も気だるい朝を迎えて、母が作った朝食を食べようとしていた時、

父が一言、「若いのに・・・可哀相・・・」

そう言ったのです。

「何が?」いつもなら気にも留めない父の一言に私の声が絡みつきました。

「いや・・・若い人が亡くなっているんだよ」

「ふうん」

頷きながら父が読んでいた新聞を借りると、瞳が見慣れた名前を見つけたのです。

「・・・・」黙ってしまいました。

そう、そうです。新聞の死亡欄には彼女の名前が載っていたのです。

どうして・・・?

あの寂しそうで悲しそうな、すべての影を背負ったような背中が思い出されました。

どうして亡くなってしまったのか。

病気なのか、事故なのか、それとも殺されたのか、

もしかしたら・・・自殺?

色んな事が頭に浮かびましたが、すべては私の頭の中での想像でしかありません。

本当のことを知るためには、私に手紙を渡した教師に訊ねなければならないでしょう。

朝食をすまして思わず携帯に手を掛けて相手に掛けようとした時に、

自分が先生の携帯番号を知らない事に気がついたのです。

舌打ちをしつつ、学校が始まる時間を待って会社から掛け直しました。

「恐れ入ります、満谷(みつたに)先生をお願いしたいのですが・・・」

満谷というのがあの教師の名前です。

『はい?』

受話器の向こう側で女性の声がまるで知らない名前を聞いたかのような反応を示します。

「ですから、満谷先生を・・・」

『当校にはそのような名前の教師はおりませんが・・・』

「・・・・そんな、でも、いらっしゃるでしょう?」

気が動転して自分が何を喋っているのか訳が判らなくなりました。

先生がいない?どうして?

短いやりとりの中で突きつけられた事実は、

やはり先生が学校には在籍していない事でした。

では、いつからいないのでしょう?

私と逢ったのはつい先日の事だったのです。

あの時先生は、Aさんと同じ学校だと嬉しそうに語っていました。

それなのに、いない?おかしいじゃないか。

こんな風に疑問が幾度も頭の中を駆け巡ります。

支えていなければ眩暈をおこしそうです。

では、私が「先生」だと信じて逢った男はいったい誰だったのでしょう。

満谷という教師自体が嘘偽りの存在だったのでしょうか?

いいえ、違います。あの時、私はあの教師を見間違うことはなかったのだし、

あの男を見たことは夢でも幻でもなく現実に起きた事なのです。

なぜなら、私の手元にはあの男から渡されたAさんへの手紙のコピーがあるのですから。

そうです。私はあの時コピーを取ったのです。

もしかしたら何かの役にたつかもしれない。

そう直感めいたものが働きました。

「絶対この手紙は返してくれよ」

先生が何度も念を押したから、不審に感じた私が残したものでした。

先生の事を信じている反面、

何か言いようのない黒いものをあの教師から感じたからかもしれません。

だから、あの男の字は私の手の中にまだあるのです。

これで、満谷を追い詰めることができる。

そう思って学校に電話をかけたのに満谷はいないと言われた。

本当にどこにいってしまったのか・・・。

なら初めからあの話は嘘だったのではないだろうか。

私が親しみを込めて笑顔を作り、満谷から聞いたAさんの話。

なら、どうしてAさんは死んでしまったのでしょう。

手紙の内容が嘘なら・・・いいえ、これも推測しかできません。

なぜなら、私の考えは「彼女が自殺している」というのが、

前提でおこなわれているのですから・・・。

真実を知るためには、すばやい行動と揺るぎない勇気が必要。

彼女の死がどんな意味を持つのか、

その死に自分がどれだけの割合で加担してしまったのか、

私は知らなければならない義務があると感じたのです。

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<姉妹・2 戦慄>に続く。