<恋紅(濃紅)の嘘>
はじめは、そんなこと考えつきもしなかった。
同じ会社に勤めている、ただの同僚なのだと、
そうとしか思っていなかった。
でも、この頃気がついたことがある。
彼の私を見つめる瞳の色が少し違う事に・・・
何度も思い違いなのではないだろうか・・・
そう思い直した。
でも、あの瞳はどこかで見たことがある。
いや、あの瞳をした人物は他の誰でもない鏡に映った私なのだ。
だからどこかで見たことがあると錯覚したのかもしれない。
毎日の疲れ果てた生活の中で唯一、彼と話をしている時間が楽しかった。
何より彼の声や笑顔があるだけで私の心の中は幸せで満たされたのである。
彼といる時の充実感と充足感。
それが今の私の生きていく糧になっている。
大袈裟じゃなく、本当にそうなのだ。
別に彼と特別な関係になりたいと願っているわけではない。
私には家族がいるのだし、何より彼は私よりも五歳も若いのだ。
きっと、可愛い彼女でもいるのだろう。
それに私の方でも彼の事を特別に意識している・・・わけではない・・・
ただ、笑顔が素敵なおしゃべりも上手な、
一緒にいると安らぐ人だと・・・
そんな風にしか思っていない筈だった・・・
何かを望んでしまったら、この生活を続けることはできない。
何かを始めるなど、始められる立場にもない。
恋愛には相手が必要で、相手のない恋愛など成り立つわけもない。
だから、私と彼が何かを始められる筈がない。
そう、頭の中に叩き込んで毎日仕事に向かっていた。
ただ、彼と会えればいいのだと、
言葉を交わす事が出来るだけでいいのだと
自分に嘘を吐き続けていた。
でも、あんな瞳の色を見てしまったら・・・
言ってはいけない言葉を口にしてしまいそうで、
その言葉を口にしてしまったら・・・
これから幾つもの嘘を吐いて生きていかなければならなくなる。
誰にも何も言えない間柄など、あってはいけないのだと
そう心の中で反芻しても、そう思っている同じ心の隙間から
流れ出してしまっているのは彼に対する思いだけなのだ。
何を間違ってしまったのだろう。
ただこの気持ちに気が付いてしまった私が悪いのか・・・
日々の生活の中で、私の心の中に隙間を作ってしまった事が悪いのか・・・
その隙間を、彼を想う事で埋めてしまった事が悪いのだろうか・・・
家族がいる女が、夫とは違う誰かを想ってはいけない。
それは至極当たり前の事だが、でも人の気持ちというのは
一つの場所に留まっていることはできない生き物で・・・
今の私は、私の中にある理性だけが頼りで・・・
彼の瞳を見てはいけないと・・・
あの切なそうな瞳を見てはいけないと・・・
心に釘を打ち続けなければならない。
そんな苦しい状況にいても、やはり彼の傍にいて
彼の声を聞いていたいと思ってしまう私がいる。
「彼女がいるのならその人と幸せになれるといいわね」
そんな私の小さな嘘を耳にした時の彼の悲しそうな瞳の色は
きっと忘れる事ができないだろう。
そして、そんな嘘を吐いた私の瞳の色も同じ色をしていたのかもしれない。
今では・・・私の唇から洩れる声は全てが嘘なのだろう。
そう思うときがある。
どうして私には家族があるのだろう。
どうして私は独りではないのだろう。
何度考えたかしれない。
でもそう考えた後でそう思うこと自体が私の人生を否定してしまっているのだと
そうも気がついたのだ。
私と彼がなぜ今、出会ってしまったのか・・・
きっとそれには意味があって、その意味を知るために今の私はいる。
彼を想うこと自体は自由なのだと、
誰も私の心の中までは踏み込んではこないのだから、と安心して、
きっと私はこれからも彼を思い続けて生きていくかもしれない。
恋愛に相手が必要ならば、相手のいないこの気持ちのことを
やはり「恋」だと誰もが答えてくれるのだろう。
切なく甘い恋をしているのだと・・・
そう心に納得させてこれからも生きていかなければならない。
それが家族を持っている女のおかしてはならない一つの線なのだ。
でも本当は口に出してしまいたくなる。
私は彼が好きなのだと・・・
嘘を吐いて生きているのだと、
本当の事など何一つ言ってはいないのだと、
夫に嘘を吐いて生きているのだと・・・
どうして言ってしまってはいけないのだろう。
どうしてなのだろう・・・・・。
今度、あの心をかき乱されてしまうくらいの
彼のせつない瞳の色を見てしまったら・・・
紅をつけた唇が罪の言葉を吐いてしまうのに
そう時間はかからないかもしれない。
************
濃紅・・・日本の伝統和色辞典より
この主人公の口紅の色を示しています。
『恋』と色の『濃い』を合わせてこの題名にさせていただきました。
はじめは、そんなこと考えつきもしなかった。
同じ会社に勤めている、ただの同僚なのだと、
そうとしか思っていなかった。
でも、この頃気がついたことがある。
彼の私を見つめる瞳の色が少し違う事に・・・
何度も思い違いなのではないだろうか・・・
そう思い直した。
でも、あの瞳はどこかで見たことがある。
いや、あの瞳をした人物は他の誰でもない鏡に映った私なのだ。
だからどこかで見たことがあると錯覚したのかもしれない。
毎日の疲れ果てた生活の中で唯一、彼と話をしている時間が楽しかった。
何より彼の声や笑顔があるだけで私の心の中は幸せで満たされたのである。
彼といる時の充実感と充足感。
それが今の私の生きていく糧になっている。
大袈裟じゃなく、本当にそうなのだ。
別に彼と特別な関係になりたいと願っているわけではない。
私には家族がいるのだし、何より彼は私よりも五歳も若いのだ。
きっと、可愛い彼女でもいるのだろう。
それに私の方でも彼の事を特別に意識している・・・わけではない・・・
ただ、笑顔が素敵なおしゃべりも上手な、
一緒にいると安らぐ人だと・・・
そんな風にしか思っていない筈だった・・・
何かを望んでしまったら、この生活を続けることはできない。
何かを始めるなど、始められる立場にもない。
恋愛には相手が必要で、相手のない恋愛など成り立つわけもない。
だから、私と彼が何かを始められる筈がない。
そう、頭の中に叩き込んで毎日仕事に向かっていた。
ただ、彼と会えればいいのだと、
言葉を交わす事が出来るだけでいいのだと
自分に嘘を吐き続けていた。
でも、あんな瞳の色を見てしまったら・・・
言ってはいけない言葉を口にしてしまいそうで、
その言葉を口にしてしまったら・・・
これから幾つもの嘘を吐いて生きていかなければならなくなる。
誰にも何も言えない間柄など、あってはいけないのだと
そう心の中で反芻しても、そう思っている同じ心の隙間から
流れ出してしまっているのは彼に対する思いだけなのだ。
何を間違ってしまったのだろう。
ただこの気持ちに気が付いてしまった私が悪いのか・・・
日々の生活の中で、私の心の中に隙間を作ってしまった事が悪いのか・・・
その隙間を、彼を想う事で埋めてしまった事が悪いのだろうか・・・
家族がいる女が、夫とは違う誰かを想ってはいけない。
それは至極当たり前の事だが、でも人の気持ちというのは
一つの場所に留まっていることはできない生き物で・・・
今の私は、私の中にある理性だけが頼りで・・・
彼の瞳を見てはいけないと・・・
あの切なそうな瞳を見てはいけないと・・・
心に釘を打ち続けなければならない。
そんな苦しい状況にいても、やはり彼の傍にいて
彼の声を聞いていたいと思ってしまう私がいる。
「彼女がいるのならその人と幸せになれるといいわね」
そんな私の小さな嘘を耳にした時の彼の悲しそうな瞳の色は
きっと忘れる事ができないだろう。
そして、そんな嘘を吐いた私の瞳の色も同じ色をしていたのかもしれない。
今では・・・私の唇から洩れる声は全てが嘘なのだろう。
そう思うときがある。
どうして私には家族があるのだろう。
どうして私は独りではないのだろう。
何度考えたかしれない。
でもそう考えた後でそう思うこと自体が私の人生を否定してしまっているのだと
そうも気がついたのだ。
私と彼がなぜ今、出会ってしまったのか・・・
きっとそれには意味があって、その意味を知るために今の私はいる。
彼を想うこと自体は自由なのだと、
誰も私の心の中までは踏み込んではこないのだから、と安心して、
きっと私はこれからも彼を思い続けて生きていくかもしれない。
恋愛に相手が必要ならば、相手のいないこの気持ちのことを
やはり「恋」だと誰もが答えてくれるのだろう。
切なく甘い恋をしているのだと・・・
そう心に納得させてこれからも生きていかなければならない。
それが家族を持っている女のおかしてはならない一つの線なのだ。
でも本当は口に出してしまいたくなる。
私は彼が好きなのだと・・・
嘘を吐いて生きているのだと、
本当の事など何一つ言ってはいないのだと、
夫に嘘を吐いて生きているのだと・・・
どうして言ってしまってはいけないのだろう。
どうしてなのだろう・・・・・。
今度、あの心をかき乱されてしまうくらいの
彼のせつない瞳の色を見てしまったら・・・
紅をつけた唇が罪の言葉を吐いてしまうのに
そう時間はかからないかもしれない。
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濃紅・・・日本の伝統和色辞典より
この主人公の口紅の色を示しています。
『恋』と色の『濃い』を合わせてこの題名にさせていただきました。