<アストレアの天秤>

今、私の目の前に新聞記事の切り抜きがある。

それは、つい半年程前の小さな記事で、

男女の悲しい心中が掲載されているものだった。

男は33歳。女は26歳。

だがこの記事には、男には妻があり子供が二人もいて、

女には捨てるものが何もない一人者なのだとは・・・、

そこまでは載せてはいなかった。

それなら何故、私がこの二人の詳しい事情を知っているのか・・・。

それは、この二人が私の会社の同僚だったからである。

寒い冬の日。

銀杏の葉も黄色に染め変わり、悲しく舞い落ちてくる。そんな冬の日。

落陽が影をつくり、その影が深まって街の色が漆黒に変わり、

すべてを闇の中に隠してしまった、そんな寒い冬の夜の日。

ひとつの火事がすべてを燃やしつくしてしまった、そんな悲しい記事。

男と女がなぜ夜を共にし、火事を起こし、

死のうとまで追い詰められていったのか。

その事を聞きに会社のほうにまで刑事が現れた。

上司が汗を掻きながら応対している時、

ふと私は一人の若い刑事と目と目が合ってしまった。

ここで急いで瞳をずらしたりすれば、

刑事は執拗に私を追いかけてくるだろう。

そんな考えが浮かんで、私は刑事から目を離すこともせず、

いつも通りを装って私は刑事の質問に耳を傾けていた。

「何か、あの二人のことで知っていることはないですか?」

刑事は優しく、でも瞳の色だけは変えずに声を掛けてくる。

何を訊かれても首は横に振ろう。

この事件が会社に流れてきた時、私の中では一つの決心がなされていて、

それは、たとえ刑事に何を訊かれても、

どんな風に私自身が追い詰められても、

口は絶対に開くまいと固く心を閉ざすことにしたのだった。

もちろん刑事の覗き込む顔の中に、

何かを掴みたいという粘質的な執念が感じられたのは言うまでもないのだが、

私の知っている事は何一つないのだと告げると・・・

がっくりと肩を落として、ぶつぶつ言いながら踵を返して、

もう一度、私の上司の方へと行きかけたのだった。

だが、その刑事は思い立ったように振り返り、最後に・・・

「何か思い出したら連絡をくださいね」

と、テレビでよく聞く台詞を吐き、私の元から去っていった。

その後姿を、遠い目をしながら追っている私。

やはり、真実は言わなければならないのだろうか?

それが私の使命なのだろうか?

だから、あの若い刑事は数いる社員の中から私を見つけだし、

あの夜の闇から私の影だけを抜き出して影絵を作ろうとしているのではないだろうか?

真実を探り出すために・・・

なら、すべてを何も知らない男の手によって暴き出されるぐらいなら、

私があの娘のことを語ってあげなくてはいけないのではないだろうか?

決して話す事はしない。

そう心に鍵を掛けた筈なのに、

私は会社の外に出た刑事を追いかけて、あの後姿へと手を掛けた。

「あの・・・」

自分から声を掛けたのに、それでもまだ語るべきなのかを悩んでいた私。

でも刑事の瞳は私を捉えて離そうとはしなかった。

「どうしたんです?」

柔らかい刑事の声に導かれるように私は重い口を開き、

二人が命を絶った理由を語り始めた。

「私があの二人の事で知っていることは・・・、

それは、あの男と付き合っているあの娘から相談を持ちかけられたからで・・・

その相談も思わず溜息が洩れてしまう内容で、

『そんな男とは別離れてしまいなさい』って、

そう強い口調であの娘に言ってしまった事が引き金で、

あんな事が起こってしまったのなら、

だとするならば、私が間接的にあの娘を追い詰め、

心中などという大それたことをさせてしまったのでしょうか?

あの娘はあの時、自分へと救いの手を差し伸べて欲しかっただけなのに、

私はその手を掴むことなく、振り払ってしまったのでしょうか?」

そう涙ながらに刑事に語ると、刑事はその経緯を知りたがった。

「あの二人は何をしたんです?」

刑事の瞳が一瞬光り、私の中からすべてをすくい取るように言葉を紡ぎ出させていく。

「あの娘は、あの男に利用され、横領という罪に手を染め・・・、

でもたぶん、それはあの男の命令があったからで・・・、

それに耐えられなくなって、そして自らの命を絶ってしまったんです」

『可哀相』だと、たった三文字の言葉で片付けてしまうには忍びなくて、

あの時、どうしてもっと真剣にあの娘の声を訊いてやらなかったのかと苦しみました。

あの男がどれほど汚く、浅ましい男なのかを見せてあげさえすれば

あの娘だって騙されることなく、今もあの席で笑って生きている事が出来た筈なのに。

その幻はいつまでも私を苦しめ続けて、

私を掴み続けたまま手放す事はないでしょう。

この私の懺悔の声を聞いて刑事は小さく頷き、慰めの言葉を囁き、

自分達が仕入れた情報と一致した、と私に告げてその場を去っていった。

後は彼らが裏付けを取るだけである。

あの男が不実だった事と、金を振り込まれたであろう通帳と、

そしてあの娘が横領をしていたという証拠と・・・。

あれから半年。

新聞の切り抜きが伝える内容が、事件のすべてを物語ってはいないことを

私自身が一番知っていた。

でも、誰にも『真実』を話すことはないだろう。

たとえ愛する男が現れたとしても、私の中の暗い闇を話すことはないだろう。

いや、もう人を愛する事もないかもしれない。

あんなに尽くした男に騙され、

会社の金に触手を伸ばし、貢がされていたのは

あの娘でも他の誰でもない、私だったのだから・・・。

あの男は本当にどうしようもない男で、

でもそのどうしようもないところに惹かれて、

妻がいる男と知りながら関係を続けていった。

四季を二年以上も跨いで、先が見えない関係だと知りながらも、

罪の味は深く甘美で、抜け出すことのできない麻薬のようで、

あの男の言葉が私のすべてになっていって・・・、

でも、そんな私はあの男を殺す事を決めてしまったのだ。

このままでは私が私ではなくなってしまう。

そんな焦燥感が私を狂わしていったのか・・・

それとも・・・

あの男とあの娘が夜の街に消えていったのを見た時から

全てが狂ってしまったのか。

そんなことは、もうどうでも良かった。

訂正して申し訳ないのだけれど・・・

あの娘が私に相談してきたことなど、一度もない。

あったとすれば・・・

「私、あの人の事が好きなんですよね。別離れてくださいますか?」

そう私が言うべき言葉を先に盗られたときだろうか?

その瞬間に、私はこの娘も巻き添えにして、

あの男共々、死の世界を見せてやろうと緻密な計画を練ったのだし、

刑事もその糸を探りだせないほど完璧に火事の中へと葬り去る事ができたのだから。

あの部屋であの夜なにが起きたのか・・・。

それは、あの娘の部屋へとあの男よりも先に「別れ話をする」と切りだして

うまく上がり込み、あの娘に睡眠薬を服用させた事から始まったのである。

そして・・・あの男へと最後となる『死の電話』を入れたのだ。

「あの娘が死んでるわ」

と慌てた声で・・・彼女の家から電話をかければ・・・

驚いた男が急いで駆け付けるに決まっている。

そして案の定現れたのだ。

小さな覗き窓から見えた男の姿。

息せき切って肩で呼吸を整え、部屋の呼び鈴を押した男の目は血走っていた。

思わず吹き出してしまいそうになった。

これから殺されるとも知らないで、そんな姿をさらけ出して、

私には見せたことのない切羽詰まった表情をした男の姿。

なんだか滑稽だった。

これから人の命を奪おうというのに、不謹慎だろうか?

でも、あの時の私に正気を保てと言う方が難しいことだったろう。

私は静かに、でも表情は怯えたように見せ、男を娘の部屋へと招き入れていた。

それが男の命を奪う門だとは、男には一切何も告げずに・・・。

「どうしよう」と震えた声を私は吐き出して、目には涙さえも潤ませて・・・

女は誰もが女優になれる。

局面が究極であればある程その演技は冴え渡るのだ。

男を先に行かせ、短い廊下から部屋に入った時、

その背中に向けて私は薄い微笑を滲ませていた。

その滲んだ笑顔は私の顔から彼の背中へと移り、

あの時、彼の背中には私が居たのである。

それが、昔、幼少の頃にうまく描けなかった水彩画のように見えてしまい、

あぁ、あの時の歪んだ自画像は、この時の私を描いたものだったのだ、と

そんなつまらない事を頭の中に浮かばせていたのを今でも覚えている。

そう、私はあの背中に自分の微笑みを、ただ最後に写し留めたかっただけなのだろう。

でも正確には、彼の背中を映していた部屋の窓へとその微笑を焼き付けていたに過ぎない。

彼の背中に私の微笑が写り住むこともなかったのである。

愛した男は、反映している窓の世界の奥の方で娘に急いで近寄っており、

娘の生死を確認するために身体を屈めていた。

そう、チャンスはその一度きり。

私は男の首に素早く紐をかけ、その紐を欄間へと投げ込み、

そして思いきり力強く引っ張ったのだ。

まさか、こんなに事がうまく運ぶとは思いもしなかった。

仕損じれば私の命が危なくなることは判っていたし、

そうなった時はそれでもいいかと思っていたのだけれど・・・

愛した男に殺されてしまう。

それはそれで私自身があの男の中に留まる事になれたかもしれないのだろうけれど・・・

でも、それでも私の手は紐を緩める事は決してしなかったのだし、

あの男がこと切れるまで、その紐をギュウッと握りしめたまま

私は震える身体をただ固くさせて、

ただ小刻みに揺れている男を背後に感じていたのだから。

ただ、今後悔していることがあるか?と問われれば・・・

どうしてあの時、あの男に殺されることを選択しなかったのかという事だけかもしれない。

そう、私が殺すのではなく、殺されるという選択。

あの男の人生の中にいつまでも入り込めるという甘い選択。

なぜなら、男はずっと私を殺した罪を背負って生きていかねばならないのだし、

男の人生の中に拭う事もできない汚れた傷を残して死んでいけるのだ。

愛してもいない女を殺した罪に苛み、

愛した者達から突き放される孤独を味あわさせることができる。

そうすれば良かったのだろうか?

そうすればこんな工作を考える事もなく、

ただ安らかに死んでいくことができたのだろうか?

そこまでを思い出し、

私は新聞記事をそっと書棚の中の本とともにしまい込んだ。

何をどう後悔したところで、現実は何も変わる事はないのである。

生きているのは私なのだし、死んでしまったのは彼ら二人なのだから。

すべてを燃やし尽くしてしまった、初めは小さかった蝋燭の炎も

あの娘を眠ったまま死に至らしめた炎の舞も、男の亡骸も、

私があの部屋にいたという痕跡も・・・何もかも・・・

すべてを焼き尽くしてなくなってしまった。

あの男が私の愛した男だったことも・・・

何もかもをのみ込んで・・・

そう、この事は決して誰にも知られることはないだろう。

それほど私の計画は完璧だったのだ。

あの男との逢瀬も会社の電話を使用したり、

決して私的なものを不倫の道具に使った事はなかった。

横領についても、罪に手を染めた時から、

あの娘がしていたこととなるように、痕跡を残したのだから・・・

だから、この事件が私の起こした事件だとは誰も思わないだろうし、

きっと刑事は犯人がいることも想像できないに違いない。

ただ男女が心中を決めて、深い闇の中に炎と共に身を投じただけなのだと・・・

そう解釈するだろう。

だが・・・、成功したにも拘わらず、私を包んでいるこの喪失感は何なのだろうか?

男を殺した充実感はあったのに、

後から押し寄せるこの悲しみをどう表現したらいいのだろうか?

人を殺したその罪を背負って生きていく覚悟は、ある。

でも、あの若い刑事にすべてを掴んでほしいと思っている私もいるのだ。

この微妙な天秤はどちらに傾いても救われない・・・。

きっと死ぬまでこの無限の闇から抜け出せないのであろう。

あの夜、漆黒の闇から逃げだしてきた私はそのまま影となり

今は色のない影絵の中でひっそりと生きている。

私が色を取り戻す時、

それはきっとあの刑事が私の前に現れた時だろう。

罪を裁く女神・アストレアが私にもう一度、

人として生きていくことを赦してくれる時はくるのだろうか?

過去の影絵の世界で影としてではなく・・・

現実の世界の中を生きていく罪人として。