<幻惑の影・2>
つい昨日のことだ。
この女から電話があったのは・・・
「あなたとお話がしたいの。もちろん来てくださるわよね」
知らない番号にはいつもは出ないのに・・・私の感が働いて出た電話だった。
自分の名字を名乗り、何の話かは察している通りだという。
凛とした女の声。その透き通るような声にただ私は頷いただけだった。
ただ私と女との一対一の対決。
この出会いが何をもたらすのか・・・恋人との別れなのか、それとも・・・
いや私が望んでいることをこの女が持ってきてくれるわけがない。
最初はそう思っていた。
だが、この女の放った台詞は私と恋人とがそのままでもいいというものだった。
何を言っているのかわからない。耳を疑った。
違う国の言葉を聞いているかのような感覚。
「真意が見えないわ・・・」
私が口にした言葉で女が激越な口調になればあの言葉は嘘になる。
そう思った。
だが、女の顔はチラリとも曇らない。
しかもあろうことか鞄から一枚の紙を出してきたのだ。
離婚届。
そう書いてある紙には既に女の名前が記されてあった。
印鑑も押してある。
あとは夫である恋人が名前を書き印鑑を押すだけなのだ。
生唾を呑んでその紙から視線を逸らすことができない自分がいる。
この紙を待ち望んで今まで恋人と一緒に過ごしてきた。
たかが紙切れ、されど・・・紙切れなのだ。
この紙がなければ、恋人はこの女とずっと夫婦でいなければならない。
その紙がいま目の前にある。
だが、どうしてこの女は私にこの離婚届を見せたのであろうか?
離婚するのもしないのも夫婦のことではないのか。
たとえ、原因が私自身にあるのだとしても・・・。
しかも自分の夫との関係をとがめないような先刻の言葉。
いえ、ちょっと待って・・・。
この夫の欄に彼の名前がないことが重大なのではないだろうか?
私は名前を書いてあるのだけれど、あの人が名前を書いてくれないの。
黙ったままの女の笑みがそう告げているような気がした。
まさか・・・・・・まさかね。
一筋の汗が背中を伝っていくのがわかった。
嫌な汗。
自分がこの離婚届にどれだけ動揺しているのかが伺い知れる汗なのだ。
「どうなさったの?」
女は相も変わらず余裕の微笑を浮かべている。
そのあなたの行動と言葉に動けないだけです。
こう胸の中で呟いた。
このまま逃げ出してしまいたかった。
今更ながらに後悔している。この女に会ったことを・・・。
カフェの他の客は楽しそうに談笑しているのに、
この私たちの座っている時間だけが冷たいものを放出していた。
「嫌だ・・・変な勘ぐりはしないでね。そのままを感じてくださっていいのよ」
また一口ミルクティーを飲みながら女は離婚届けを鞄へと仕舞い込んだ。
「私、夫と別れるつもりでいるの」
長いまつ毛を伏せがちに傍らの灰皿を引き寄せて煙草を吹かしはじめた女。
「疲れてしまって・・・。あの人の浮気癖に・・・」
そこまで言って女は凛とした顔をもう一度私に見せた。
「あなたは自分だけなのだと思っているかもしれないけれど・・・そうではないわ。私が知っているだけでも愛人はあなた一人ではないのよ。そこをあなたが我慢できるかどうかは・・・、あなた次第よね。私は・・・もう我慢ができなくなったのよ。ただ・・・それだけ」
女の瞳は落ち着いていて私に対する嫌悪などは感じられない。
だが、女の言葉をそのまま鵜呑みにすることはできなかった。
私だけではない?そんなことは決してない。
それだけは断言ができる。
ここ最近彼と私は毎日のように会っているのだし、
他の女の入り込む余地などないほど愛し合っている。
ということは・・・妻の最後の意地がついた嘘だというのだろうか。
そう、きっとそうなのだ・・・
なら、この女の言葉が真実なのだと、この女自身にもう一度嘘をつかせなければならない。
もしかしたら、あの台詞を聞いた私が怖気づいて夫と別れてくれると思ったのかもしれないのだから。
私は目の前にある煙草の灰を見ながらゆっくりと唇を開いた。
「そう・・・ですか。別れてくださるのなら結構です。なら、その離婚届を預かってもいいでしょうか?貴女がその言葉を言いにきた証拠にもなりますしね」
最後の言葉で私はこの女と同じ薄い微笑を作ってみせる。
すると女は煙草を灰皿でねじり消して、
仕舞い込んだ離婚届を出してきて最後に溜息をつきながらまたも同じ微笑を私に作って見せたのである。
「あなたがあの人と一緒になるつもりなら・・・・・それはそれでいいの。でも覚悟はしておきなさいね。人のものを盗ったら今度は自分が盗られる側になるのだということを・・・」
そう忠告めいたことを残して私の前から去って行ったのである。
奪ったら奪われるという連鎖。
このスパイラルから逃れる術を今は私が握っているのだ。
今でもそう思っている。
あの女が私の前に現れ、最後に見せた背中のなんと印象的だったことか。
あの背中は女の「誇り」と「プライド」だけでできていたような気がしてならないのだ。
その背中に今自分自身もなっているのではないだろうか・・・。
そう思えてならない。
本当に自分は恋人を愛しているのだろうか?
あの女との意地のために関係を続けていたのではないのだろうか・・・
正妻と愛人。
この隔たりをなんとか逆転させたかっただけなのではないのか・・・。
女の出現によって自分の「愛」に自信がなくなってしまう私がいる。
あの女の言葉に惑わされている私がいるのもまた事実。
やはり、聞くべきではなかった。
でも、今さら引き返すことはできないのだ。
私は恋人を愛している。
女が現れようとなかろうとこれから先も愛していくことを見失ってはいけない。
見失わせるために女は私のところにやってきたのかもしれない。
「愛人は他にもいる」
惑わすための言葉。
そう思うのが妥当なところだろう。
ただ、恋人に対しての不審を抱かせるために現れたのだとしたら・・・
この女のしたことは何の役にもたたなかったということになる。
そう思うことが、私の「女」に対する唯一できる反撃方法だったのだから。
「疲れてしまって。」
そう言っていた女の顔には・・・
愛した男への未練が映っていたのではないだろうか・・・
今となっては女に問えるわけもなく、
遠くに行ってしまった女の背中をただ見送るだけとなってしまっていた。
ただ、あの女に最後まで嘘を吐かせることができたことが私の誇り。
「主人とは別れるつもりなの」
本当にそうなのだろうか?
でも、離婚届は私の手の中にある。
あとは、彼にこの紙を持って行きサインをしてもらうだけ・・・。
そう、簡単にことが進むのであればいいのだけれど・・・。
この離婚届に引っ掛かりを覚えたのは何か意味があるのだろうか。
なぜだろう?雲行きがあやしくなってきたと感じているのは・・・。
なぜなんだろう。
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幻惑の影・3に続きます。