夏雲が広がる空の下。


今日私は、お墓参りをしてきました。


平和な日々を築きたい…
そう、思いを伝えてきました。





私の父方の祖母には、三人の弟がいました。
私にとっては、大叔父たちになります。


しかし、三人とも、戦争で亡くなりました。
真ん中の弟さんは、広島の原爆で亡くなりました。


子どものころから、そのことを聞かされ、祖母に連れられてお墓参りにも行っていましたが、成長するにつれ、だんだんと行かなくなっていました。


いつかちゃんと、何か思いを伝えたい。
日々が流れ、大人になり、そんな気持ちになりながら、何もできていませんでした。


そして今年、戸籍を見る機会がありました。
そこには、戦争で亡くなったことが確かに記されていました。
そのとき、言葉にならないなんともいえない感情が、ふつふつと湧いてきました。





今年は「戦後70年」ということで、テレビなどで戦争の様子について知る機会が、何度かありました。


戦地に向かい、兵士として戦った人々、戦争に巻き込まれた人々の思いにふれて、私は、自らも陸軍の兵士として異国で戦った祖父の、70年近くの思いを推し量るに至りました。


小学生のとき、夏休みのテキストには、「戦争の話を聞きましょう」というページがありました。
なので、「おじいさんに聞いてみよう」と意気込むものの、尋ね方が上手ではないからか、これといった話を聞けないまま、6年間が経ってしまいました。


私や弟が大人になってから、話せる気分になっていたのか、戦地(マレーシア)での思い出を話してくれたことがありました。
しかし、バナナを取って食べたことや、アイスを食べたことくらいで、肝心の「戦争の様子」のことは聞けませんでした。


祖父が亡くなってから聞いたのですが、弟には、「仲間が、弾を受けて亡くなった」ということを話してくれた、とのことでした。
それを聞いて、驚きました。
「戦争の話」は、してくれなかった、と思いこんでいたので。


これまで私は、祖父が、生きて歳をとっていることを、どこか当たり前のように感じていたところがありました。
しかし、そうではなかった。
常に、死と隣り合わせの日々だったのです。
生きて帰ってきたことは、奇跡以外の何でもなかったのです。


奇跡的に生きて帰ってこれたから、祖父は祖母と出会い、結婚し、父が生まれ、私たちの命へとつながってきた。
「戦争から生きて帰ってきてくれて、ありがとう」
今年の誕生日の前に書いた、祖父への感謝の言葉には、そんな思いをこめていました。


ひとことに「戦争の話を聞き出す」といっても、簡単に出てくるものではない。
戦争の現場にいた人すべてが、その惨状や苦しみを語れるわけではない。
ほとんど語らずに亡くなっていく人のほうが多いのだろう。


祖父もきっと、その一人で、とても言葉にはできない光景を見て、とても言葉にはできない感情が湧き上がったに違いない。
そんな体験を、8月15日に近い、夏休みの時期に、とても、孫に話して聞かせる気持ちにはなれなかったのではないか…。
祖父亡き今、それはもう、私の推測でしかありません。


しかし、祖父の姿を見てきて、戦争とは、それくらい、私たちの想像を超える悲しみや悔しさ、そして、はかりしれない闇を、その時代の人、ひとりひとりにもたらしたのだと、今年になって、ようやく実感しました。


祖父は、元気だったころ、食事で出される魚料理を、骨もほとんど残さずに食べていました。
かなり堅いはずの焼きガレイの骨も、ほとんど食べていたのを見て、私も弟も、「おじいさんすごいで!骨もほとんど食べとる!」(自分たちはけっこう残すので)と、その神がかった食べっぷりを称賛していました。
そのときは、何とも思っていませんでした。しかし、今になって振り返ると、戦争のときの食生活が、彼をそうさせていたのだろうか?と、想像してみたりもします。


戦争を体験したけれど、多くを語らなかった祖父ですが、理由なく語らなかったのではない、と思っています。たくさんの悲しみや苦しみ、悔しさを背負って、復員してきたのでしょう。
だから、私も、無理に尋ねることはできませんでした。
いつ、どこで終戦を知らされたのか、いつ復員してきたのか尋ねることも、できずじまいでした。


しかし今は、その姿から、私も弟も、たくさんの「何か」を感じ、戦争について学べていると思います。
ようやく。





子どものときには、よくわかりませんでした。
でも今は、心が揺さぶられ、震え、言いようのない悔しさでいっぱいになります。


戦争に命を、未来を奪われること、戦争に大切な家族を奪われることの、悲しさ、悔しさ、無念さは、はかりしれない。
立て続けに三人を失った、曾祖父の、曾祖母の、祖母の思いは、いかばかりか…
私には、想像することすらできません。


私は直接の遺族ではないけれど、血縁者が戦争にとられ、亡くなったことは、変えようがない事実です。
だからこそ、今年はお参りしたい、という思いが、じわじわと湧いてきたのです。
それは、弟も同じだったようです。


生きて会いたかった。
いろいろな話を聞きたかった。
生きてさえいれば、なんでもできる。
生きているだけで、本当にありがたいのだ。
でも、それはもう、かなわない。


今日、墓碑に刻まれた、三人分の「戦死」の記述を読んだとき、涙がボロボロこぼれて、止まりませんでした。


「なんで、死なないけんかった…!」


母が、原爆で亡くなった真ん中の弟さんに、「叔父さん、水が飲みたかったろうに…」と語りかけながら水を足したときも、我慢できず、涙が流れました。


24歳と、21歳と、15歳。


亡くなった歳は、戸籍を見て、わかっていました。
ですが、墓碑の文字を見て、悔しさがあふれてきました。心が、悔しさでいっぱいになりました。


いちばん下の弟さんは、15歳で亡くなりました。
正直、その歳の少年を軍隊に呼ぶ理由がわからないです。
調べたらわかるのでしょうが、調べるほどに、怒りしか湧かないような気がします。


たまたまですが、墓参りの途中に、12時の音楽が鳴りました。
皆が、音楽が鳴り終わるまで、もう一度、手を合わせて拝みました。


ふと見上げると、雲ががかった青空がありました。
70年前:昭和20年8月15日も、こんな空だったのかな…?





二度とこの空に、戦闘機が飛び交うことがないように…


二度と戦争しないように…


何ができるのかわからないし、何もできないかもしれない。
でも、その気持ちを持ち続けていくことが大切なのかな、と思っています。


彼らの思いを推し量りながら、思いやりながら、私なりに努力したいです。


平成27年8月15日
戦争に関わった者の子孫の一人として。