中学生の娘が、国語の読解問題に取り組んでいました。
問題の文章の出典は、『ぼんやりの時間』辰濃和男著。
ぼんやりの時間 (岩波新書)/岩波書店
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その中で、串田孫一氏の「無為の貴さ」というエッセイの一部が
引用されています。
孫引きになりますが、次のような文章です。
「ぼんやりしているのは人間にとって非常に大切な貴い時間である。単に漠然と貴いと言っているわけではなく、この間に、本人はどの程度意識しているか分からないが、必ず蓄えられているものがある」
先の本の著者の辰濃和男さんも串田孫一さんも、
「ほんやり」の貴さを説いておられます。
このお二人の文章に出会って、私はうれしくなりました。
うれしい、と思ったのは、
私が子どもの頃から現在まで、
ぼんやりしている、と何度となく言われてきた人間で、
言われてうれしいと思ったことはなく、
けれど心のどこかで「ぼんやりで何が悪い」という
微かな反感を抱き続けてきたからだと思います。
微かな反感が自分の中に存在することすら
忘れきって自覚していなかったところへ、
ぼんやりは悪くない、
どころか、
貴いとまで堂々と、理路整然と語る人に、
同時に二人も出会えたことで、
どこかにまぎれて隠れていた小さな氷のかけらが、
ポロンと出てきて溶けたみたいな気持ちです。
「ぼんやり」が悪いとは思っていなくても、
言われてうれしくないのは、
その言葉のネガティブな意味合いを知っているから。
辰濃和男さんが辞書で調べたところでは、
次のような定義ばかりだったそうです。
「気がきかないさま」
「利発でないさま」
「どこか元気がなく、気持ちが集中しない様子」
「間が抜けているさま」
「呆然としていたり、うかつであったりする状態」
う~ん、ここまで否定的な意味を背負わされた言葉だったとは。
まあとにかく、
お二人のおかげで、片身の狭い「ぼんやり」が多い人たちの、
存在権と名誉が、ちょっとだけ挽回されたような気分です。
*
「ぼんやり」というのは、
これまで子育てしてきた中で、
私が大事にしたいと思ってきたことでもあります。
特に小学校時代、
娘に確保してやりたいと思っていたのは;
友達と遊ぶ時間と
好きな本を思いっきり読む時間と
ぼんやりする時間。
そう意識していたけれど。
中学生にもなると、
そうばかりも言ってられないこともあり。
ぼんやりする時間を大事にしてやりたい気持ちと、
ほんとにこのままぼんやりした人間になってしまったら困るな、
と心配になる気持ちの間で、
戸惑うことも増えてきました。
ことにこの1年、
娘を見ていて感じていた心のざわざわやいらだちは、
私の中からポロンと出てきた
あの氷のかけらのせいでもあったのかもしれないな、
なんて考えてみたりして。
こんなこと延々と考えてたら、
読解問題解くのに、1時間あっても足りないな。
よかった。
もう中学生じゃなくって。