また逢う日まで(1950) | 日本映画ブログー日本映画と時代の大切な記憶のために

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日本映画をひとりの男が見続けます。映画はタイムマシンです。そういう観点も含め多様な映画を解説していきます。範疇は作られた日本映画全てです。

また逢う日まで

1950年 東宝

監督:今井正 主演:岡田英次、久我美子、滝沢修、杉村春子


日本映画史上の名シーンとして「ガラスごしのキスシーン」は語り継がれている。しかし、このキスシーンは、別にこの映画のクライマックスシーンではない。そして、決して感動的なシーンでもない。


岡田は厳格な法務官の父(滝沢)と軍人の兄をもつ学生である。戦争には懐疑的で、父からも兄からも責められる。ある日、街で空襲にあい、絵描きの卵の久我と逢う。最初は、どこの誰ともわからなかった二人だったが、たまたま、三回の偶然が彼らを結び付ける。彼女は戦争讃美の絵とも思えないポスターや挿絵を描いて、母と二人の家庭を支えていた。岡田は、好きになり、彼女に肖像を描いてもらえないかとたのむ。彼女のアトリエでの帰り、ガラス越しにキスをする二人だった。岡田の友人は次々と戦地に。兄は重傷の末、息を引き取る。岡田は、限られた時間の中で久我を愛する。空襲の夜、二人はキスをする。そして、岡田の元に赤紙が。出征の前の日に逢おうと約束する二人。その時、義姉が流産をし、約束の場所にいけない岡田。待ち合わせの駅では久我が空襲で亡くなる。それを知らずに出征する岡田。そして20年、秋、岡田の肖像画が残る部屋で沈む、久我の母と岡田の父の姿があった。


作り手は、全員が戦争経験者である。それだけに、さまざまにリアルだと思える映画である。テーマは反戦。もう、このようなことはしないという誓いだろう。GHQの監視下にあったから、さまざまに検閲ははいっていると思うが、今見ても、悲しい話である。


岡田の役の立ち位置は、戦争がいやだという事を、それなりに語っている学生である。現実にこのような人間が多ければ、戦争にはならなかったろうし、人命はそれなりに助けられたはずである。結局、日本国という組織に忠誠をつくすことを正とすることで、バランスがくずれたわけである。現在の大企業が、伝統を正としてくずれていくのも同じである。日本人は反省できていない。


ポスターに、戦車にひかれた人を書けとか、本当にあったような話が悲しい。兄が死ぬ時に「精一杯生きろ」というようなことを言う。実際は、こんな事をいう人間がどれだけいたことか?


で、例のキスシーンだが、確かにきれいなシーンだが、まだ、二人がウブだという事を示すシーンである。決して、愛が深いシーンではないのでお間違えのないように。この後、二人のキスシーンは3回ある。そして、それは序々に激しく、力強くなっていく。今井正のこの辺の演出は力強いし、素晴らしい。


脚本は水木洋子である。それだけに、視線は女目線である。最後に正装して、駅に向かうシークエンスの組み立て方などは素晴らしい。そして、監督はそれを実に美しく撮っている。ここでの久我美子の美しさは神々しい。


今、見て、映画の構成が古臭いとか、戦時中はこんな甘っちょろくないのではないかとか、いろいろ意見はでてきそうな気はする。しかし、戦争を語り継ぐための貴重なフィルムの1本として、私はこの映画をあげたい。こういう映画を夏休みとかに学校で見せられる環境ができない国が日本という国であることは知っているが、あえて言う。映画を見せることが最も戦争を振り返ることになると。他に語り部がいなくなるのだから・・・・。


今の若者に見せれば、携帯があったら、こんなバカなラストはないだろうとか言うこともあるかもしれない。まあ、それでもいいのだ、時代の匂いのあるものに触れる事が大事なのだから。


出てくるバスが木炭車だったり、上野公園の都美術館前の殺風景なのも一見の価値あり。戦争を行った罪は忘れてはいけない。それが、日本の歴史に残っている以上は・・・。


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