⚫️ 世界ではじめて『人種平等』を主張した国、日本 

日本国民は明治維新以来、二つの大きな夢を描いてきました。

① 日本の独立をまっとうして、世界の一流国となること。

② 人種平等の理想の世界を実現することです。

日露戦争を経て第一次世界大戦が終わると、世界各国の首脳が集まりパリ講和会議が1919(大正8)年に開かれました。

ベルサイユ宮殿で調印されたことから、ベルサイユ講和会議とも呼ばれています。

この会議によって、今日の国連(国際連合)の前身に当たる国際連盟が創設されました。
この会議において、日本は世界史上はじめて『人種平等』を定めることを強く主張したことは、よく知られています。

もちろん全世界にわたって植民地を持っていた西洋の列強国によって拒まれたのですが、この件から日本は第二次世界大戦が終わるまでの26年間、孤独な戦いがはじまっていくのです。


⚫️ 日露戦争につき、戦時教育上の心得 

1904(明治37)年2月10日、明治天皇から日露戦争開戦のご詔勅が出されました。

そのとき、文部大臣名で全国の学校に向けて一つの訓令が出されました。

その内容は日露戦争につき、戦時教育上の心得に関することです。

内容としまして、イタズラに敵愾心をあおるような、例えば当時流行っていた『ロスケ』などの侮辱的言葉を慎むようにすること、そして私たち日本には戦いにおいて相手を侮辱するような精神的伝統はないこと、最後に私たち日本人は敵であっても敬意をあらわして、正々堂々と死力を尽くして戦うこと。

これらを子供たちに教えてもらいたい、という趣旨の通達でした。

このような訓令を出した国は、おそらく世界のどの国を探してもないと思います。

これが明治の大精神です。



⚫️ 捕虜をこよなく愛せ 

日本政府はロシア兵の捕虜に対しても、日本国民でその名誉を重んじ、手厚く遇するように通達しました。

そのなかの愛媛県 松山市高浜の話をします。

ロシア兵が高浜に上陸しますと、そこに何とロシア文字で『祖国のために戦った露国(ロシア)の勇士を!高浜の町民は歓迎する』との幕が掲げてありました。

高浜の駅長は、捕虜を出迎えたとき、『愛国の勇士諸君をむかえる役目を命じられ光栄に思っている。と同時に、諸君の境遇の不幸は同情に耐えないものである』と挨拶を述べ、捕虜たちは大変驚き、そして感動したと述べています。

またロシア兵の捕虜期間中の生活は虐待など一切なく、きちんとした食事を与え、松山市内を自由に散策し、道後温泉にもしょっちゅう入れてもらえたそうです。

松山市民は政府の指示どおり捕虜たちを実によく厚遇しました。

そのため戦後ロシア兵捕虜たちは、「自分の生涯の中で、天国のような所にいたことがある。それは日本での捕虜生活の期間だった」と祖国に帰り、喜びを述べているほどです。

そして戦地で「マツヤマ!」と叫んで頻繁にロシア兵が投降して来たとも伝えられていますが、それは松山市の待遇の良さが知れ渡っていたからに他ならないのです。

このように「武士道の血脈我にもあり、捕虜をこよなく愛せ」と、松山市民の心意気が今でも伝わってくるような話です。




⚫️ マッカーサーが尊敬した軍人、乃木希典 

敗れたロシアのステッセル将軍は帰国後、責任を取らされ、ロシア皇帝より銃殺刑を宣告されました。

これを知った乃木将軍は、すぐにロシア皇帝に手紙を送り、ステッセル将軍が旅順で死力を尽くして祖国ロシアのために戦ったことをセツセツと訴え、処刑のとりやめを願いでました。

この手紙によって、ロシア皇帝の心は動き、処刑は中止され、シベリア流刑に罪が減ぜられたのです。

さらに乃木将軍は残されたステッセルの家族のために、自分が死ぬまで生活費を送り続けたのです。

日本に戻ってから勝利のパレードをしているときも、乃木将軍は目を伏せ、戦勝を喜ぶよりも多数の兵士を死なせたことを悲しみ、恥じるようであったといわれています。

さらに日本軍が凱旋後、第一にしたこともロシア兵の戦没者の慰霊でした。

「昨日の敵は今日の友」という言葉どおりの実践です。

負けた方が悲惨であり悔しいのだから、まず敵軍の墓地、顕彰碑を先に作りまた。

最初は神式で実施するという話だったのに対して、ロシア側がロシア正教でやりたいと言うことで、敵の意を組んで、ロシア正教の神父さんを呼んでおこなうことにしたほどです。

このような話を聞いた外国の記者たちは、その寛大さと日本の武士道精神の美しさに息をのみ感動しました。

後に、アメリカのウォシュバンという記者は、その感激をもとに『乃木大将と日本人』(講談社学術文庫)という伝記を書いたほどです。


⚫️ 東郷元帥を崇拝していたニミッツ総司令官 

次は東郷平八郎元帥の話です。東郷元帥は日露戦争の日本海海戦において、戦力の乏しい日本海軍を率いて当時世界最強の艦隊と言われていたバルチック艦隊を破った大将です。

乃木将軍と共に今でも多くの外国の方が尊敬している日本人です。

東郷元帥は日本海海戦後、敵将のロジェスト・ウェンスキー将軍が負傷して佐世保の病院に入院していたので、単独でお見舞いに行きました。

単独でいったのはもちろん敵将に対しての配慮です。

さらに日本海を望む福岡県津屋崎に「日本海海戦勝利」の記念碑を立てる話が持ち上がったとき、東郷元帥は、「祖国のために戦死した5,000人のロシア兵のことを思うと、“勝利”という言葉は使えない」として、単に「日本海海戦記念碑」のみの碑文だけにさせました。

このように日露戦争までは、日本兵の「武士道」やロシア兵の「騎馬道」などが数多く存在した時代だったため、戦時中でも両軍が赤十字社で乾杯したり、祖国の話を語り合ったりしたと言います。

そして現在ではあまり知られていませんが、大東亜戦争の米国の陸軍総大将であったマッカーサー元帥の尊敬する軍人は乃木希典将軍であり、海軍総大将であった米太平洋艦隊総司令長官のニミッツ元帥の尊敬する軍人は東郷平八郎元帥だったと言われています。

今でも、アメリカのテキサス州にある 「ニミッツセンター」には、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真が、東郷元帥の肖像写真の下に飾られているほどです。


⚫️ はじめて有色人種が勝利した奇跡の戦争 
 

20世紀はじめの世界は、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、アメリカ等の欧米列強による有色民族に対する植民地支配が頂点に達した時代です。

15世紀末のコロンブスの西インド諸島征服をはじめとして、白人国家は南北アメリカ大陸、アジア、アフリカのほとんどすべてを侵略し、非西洋民族の国々を植民地や従属国として支配しました。

そんな圧倒的な国力、軍事力、科学技術をもつ欧米列強に対抗できる有色民族はどこにもいなかったはずです。

そして幕末のころになると最後に残された独立国がタイと支那(中国)の一部と、日本・朝鮮半島となるのです。

20世紀の前半の世界地図(赤は欧米列強の支配下)
とは言っても当時、実質的な独立国は日本だけでした。

明治維新後チョンマゲと刀を捨て、近代化を目指してたった36年のうちに大ロシアに勝ったのです。
当時世界最強のバルチック艦隊に勝利した日本の技術・精神は本当に素晴らしいものです。
それがいかに困難を極めた事業であったことかは想像できるかと思います。
だからこそ日露戦争の勝利は世界史の奇跡なのです!


日露戦争の日本勝利のニュースを聞いて有色人種の国々では興奮のルツボとなったのは言うまでもありませんが、白色人種の国でも多くの国が喜びました。

それが今までロシアに占領されていたり、圧迫されていたり、いじめられ続けていたフィンランド・ポーランド・トルコなどの国々です。

トルコでは、この勝利を自分のことのように喜び、日本と東郷平八郎を国あげて称賛しました。

そのためトルコのイスタンブールには今でも「東郷通り」があったり、さらに「乃木通り」、さらには陸軍大将で満州軍総参謀長だった児玉源太郎にあやかった「児玉通り」まであるほどです。

ポーランドでも、トーゴーやノギが当時の子供たちの人名になっているほどです。
さらにフィンランドでも「アドミラル・トーゴー」の銘打った東郷ビールが販売されました。

またインドやアジア諸国でも大騒ぎとなったのは言うまでもありません。

後のインドのネルー首相は、「長年、ヨーロッパに苦しめられてきた我われアジアの国々にも、やればできるという希望の光が差してきた気がして、子供心にも熱狂した」と談話を発表したほどです。


                〜ひふみ塾さんのブログ より抜粋〜


今ある日本や世界、私達は全ての英霊、ご先祖さん達のおかげです。
心から心から「✨💐ありがとうございます💐✨」

そしてブログを書いてくれたひふみ塾さんにも感謝✨です。いつも為になるブログ投稿ありがとうございます😊