ある人が言った。
高校時代の部活のコーチがこういったのだそうだ。
「真剣に競技をするというのは辛いことだ。楽しみたいなら別のところへ。」
だから、社会人として走っている今はお遊びでしかない。
その人は実際に、高校時代に活躍した実績を持つ人だった。
なるほどそうなんだ、確かにそうかもしれないな、と思った。
確かに、僕ら社会人は時間的にも練習時間が限られるし、何よりも仕事が本業なのだから、どんなにがんばったところでそれはお遊びの域を脱しないのかもしれないな。と。
練習のしすぎで故障した膝をさすりながら、なんだか自分がバカをやってしまった気分になった。
それから僕の行動は少しずつ変わっていった。
故障もあったが、練習会から足が遠ざかって、時間が出来ても走らなくなった。
「どうせ」から始まる言い訳が増えた。
あれから半年が経つ。
練習している間、僕の頭の中にはかならずどこかしらに「どんなにがんばってもそれは遊びでしかない」という言葉が住み着いていた。
変化というのは突然訪れるもので、それはごく自然に、ある日の練習を終えたときに疑問と言う形で僕の前にあらわれた。
「本当に、どんなにがんばってもお遊びでしかないんだろうか?」
小さなきっかけだった。
けど、ストレッチしながらこう思ったのだ。
「もしそうだとしたら、実業団選手以外は全てお遊びランナーだ。」
「いや、そもそも高校生の本業だって“勉学”じゃないか。社会人との違いは年齢と練習時間の差だけしかない。」
「なんだ、あの言葉には何らロジックがないじゃないか。」
言葉の定義が変わっていくと、自分が変わっていく。
僕は、人格は言葉で形成されると考えている。
ネガティブな言葉はネガティブな人格を作り出すし、ポジティブな言葉はポジティブな人格を作り出す。
ロジカルな言葉はロジカルな人格を作り出す。
人からのたった一言も、猛毒のように人格を蝕んで、その人の行動や人生さえ変えてしまう。
どういう言葉を持って生きていくか。
僕らは親しく会話をする相手、手に取る本、検索するキーワードまでを選んで生きていく必要がある。
選ぶ基準はどう生きたいか。いつまでにどんな人間になり、何を成し遂げて、どう終えていくか。
それさえ明確にイメージできていれば、行動が変わり始める。
心に入り込んだ悪い言葉を解毒し、ストレッチしながら再構成。
「競技単体で考えるのではなく、僕ら社会人は生活全体で考えたほうがよりいい。時間を調整して、日々のモチベーションを維持して、自分を高めるために例えばマラソンをする。」
「一つの事に真剣になれない人が、人生を真剣に考えて生きられるはずもない。だから、目の前のマラソンに一生懸命になる事はかえって素晴らしいことだし、それが仕事や生きる姿勢にも反映してくる。今目の前にあることに全力を尽くせない人間は、仕事でも私生活でも全力を尽くせない。”これはお遊びだ"は要は人生に対する言い訳じゃないか。」
「だから、やるなら本気で、全力で取り組もう。もし本気で取り組んだ結果、故障したり失敗してもそれは単なる成功するための一つのプロセスでしかない。実際に、僕だって故障から学習してマラソンよりももっともっと競技の幅を広げたんだから。」
だから、
「これでいいのだ。」
それから、練習が加速しました。
今になって思えば、冒頭の会話というのは些細な事であり、恐らく伝えたい本心というのはこの会話の内容とは別の事になると思います。
つまりその人は、一言で言うと「現状に対する自己評価の低さを過去の実績で補完して自尊心を保つ」という事をしていたんだと思うのです。
今の自分には自信がないけど、過去自分が居た世界では自分は自信を持っていた。そこをより所にして今という世界を構成している。
そこには、人生を生きる自分の軸と今をベースにした未来の存在がありません。
それはとても不幸だ、と思いました。
どんな状況であろうと、今が常に一番。未来はさらに一番以上にしていける、と思って生きて欲しい。
どうやったらそうなれるか?僕も知りたいです。
今分かっているのは、高い志を持った人達の中に身をおいて、切磋琢磨していけば自然に自分が変わっていくという事です。
つづきはまた今度。