2031年の日記 | 走りながら、食べて、聞いて、考えて!

2031年の日記

2031年3月11日。
20年前の今日、私の住む日本で大きな地震と大きな津波、そして福島県の原子力発電所が壊れ大きな被害がでました。
当時、私は生まれたばかりで、お母さんは私を抱いて長い間避難所で暮らしたそうです。
そのあと、復興活動はめまぐるしくほぼ1年程度でほぼ8割がた復旧し普通の生活に戻ったと聞いています。
ただ、問題は電気と水、そしてさまざまな食物が手に入りにくくなったことです。

大きな問題は、原発の事故でした。
たくさんの放射性物質が漏れ出して、結局、原発のあった場所から周囲30kmの住民は住み慣れた土地を手放し、新しい場所で生活をしなくてはならなくなりました。
そして、その半径30kmの場所は鉄格子で仕切られ、あと10年は人間は立ち入り禁止とされています。
もう廃墟かジャングルのようになっているようです。

私のお母さんは住み慣れたその土地を捨てて、結局関東の西側の山に住むことになりました。
お母さんは、以前住んでいたところでも山仕事や農業なども少し手伝っていたので、山の中で生活するのには慣れていたようです。

福島から逃げてきたときに、東京や横浜などに住むところも用意されていたようです。国も私たちを放っておくことはできなかったみたいで。
でも、当時も、今もなお、1日の電気消費量は決められていて、特に電車や電気で動くものが多い都会では不便が多くて、だったら山の中で暮らしたほうがいいかもしれない と思って山に移り住んだそうです。

山ですから明かりもあまりなく不便なことも多かったのですが、少しでの電気でインターネットなどでいろいろ情報は入手できたので意外に快適だったように思います。

水は、しばらく関東や東北地方の水道水は飲めない状態でした。ですから、水を求めて西に西に移動した人たちも多かったようです。
それに食べ物も、野菜や魚もしばらく生ものは食べれませんでした。

そこで、この山の中で緑の森に囲まれたところに少しの田畑を作り自分たちの食料にしました。

ここまで生きてこれて自分は幸せです。本当に危機的な状況だったのに、お母さんは私を育てながら必死に生きてきました。ただ、お母さんはときどき「福島に帰りたい」といいます。
私は、あの鉄格子しか見たことがないので、どんな土地だったのか知りません。
お母さんは、「水もおいしくて、たくさん野菜や果物がとれて、それに鮭が川を上ってくることもあったんだよ」と教えてくれました。
そういいながら、いつも最後に、ふとさびそうにします。

お母さんには「ふるさと」がなくなっちゃったんですね。
自分も、「ふるさと」はどんなんだろうって思うことがあります。

ところで、この前、政府からこんな手紙が来ました。
この国には、プロトニウムという核廃棄物があるそうです。それがもう100トンほど。それをどう処理していいかわからず苦労しているらしく、せっかくあと10年で「ふるさと」に戻れるかと思ったのですが、あの鉄格子の中の土の中のずっと奥に埋め込むしかないということで、そのお知らせでした。
たいへんなお金がかるそうで、そのために税金も増えるということです。
もともとは、ウランを使って原子力発電をしたときに核廃棄物としてプルトニウムなどが残るそうなんです。それは昔はすばらしい物質で、高速???とかいうものができれば半永久的にプルトニウムを再生させることができて、まさに二酸化炭素も増やさず、クリーンなエネルギーなんだということで積極的にすすめていたということです。
ただ、なかなか実用化できず、結局、プロトニウムだけが残ってしまったようなのです。
これがとにかく扱いが難しく、一部MOX燃料で処理はしていきましたが、あの原発の事故で結局原発を廃炉にすることになり残った残骸が、このプルトニウムだけだったのです。

過去の政治家や研究者はその夢のような物質に期待し多額のお金を投じて作ったようですが、結局、その後処理は残された私たちになってしまいました。
そんな夢のような物質があるわけないんです。悪魔の物質です。

今日3月11日2時46分。
お母さんと福島のあるほうを向いてお祈りしました。
お父さんが亡くなって20年もたってしまったんですね。

(これはフィクションです。絶対そうであってほしいと思います)