普通と特別 | 走りながら、食べて、聞いて、考えて!

普通と特別

久々に走らないでベッドに入る日だ。

10時過ぎに、ようやく会社を出ることができ、急いでスーパーに翌朝の朝食のパンを買い、帰宅した。


食事は、結局、昨日購入しておいたコーンのサラダと、チーズをいただきながらのワイン。そして、結局、湯豆腐という非常に質素なものになってしまった。

というのも、ご飯を食べようか?と思って、冷凍されていたご飯を解凍して食べようと思ったが、

無い。

おかしい、子の前冷凍しておいたはず・・・しかし、無いってのは、やっぱり無いってことだ。

仕方ない、翌朝のパンを一個温めて食べることにした。

だから最後に、パンとワインで〆という感じ。


で、その間、溜まっていた録画番組を見ることにした。

先週の「関テレ」の「だいすき」というTVドラマを見た。


知的障害のある女性が赤ちゃんを産んで育てていく話らしい・・・。


そのドラマを見てふと思い出した。


自分の通っていた小学校では「特殊学級」というのがあった。

そして、4~6年に担当していただいた先生は、その「特殊学級」について説明をする際に、こう言ったのだ。


「『特殊』と『普通』ってどういうことだろう?

「今の基準で言えば、みなさんが普通で、あの『特殊学級』にいる子供達が、特別ということになるけど、でも、

その基準って、今、そう決めたからであって、もしかすると、あの子たちが『普通』で、みなさんが『特別』なのかもしれないですね」


この話は今でもずうっと記憶に残っている。

この先生は、私にとても影響を与えてくれた先生で、(あ、いけない、今年年賀状を出していない。ごめんなさい)

母親に言わせると、この先生に対して自分は反発をして、『問題児』とされていたらしい。


しかし、そういう環境であったことはさておき、この話は今でも自分の判断基準に大きく影響を与えている。


世の中にいろんな人間はいるもので、今、この大阪の事業所でも、いろんな者がいる。

私の会社は、日本でも有数の商社が投資してスタートしたものなので、その商社から出向してきている社員も多い。そういったいわゆるエリートと比べても格段の差のある人物もいるのは確かだ。

しかし、

それは、いわゆる日本の受験制度や

東大を頂点にした大学制度でいうところのエリートであって、決してその基準がすべてではないと思う。

常に、それを実体験している。


営業というのは学歴に関係なく、センスのあるものも多いのだ。

また、マーケティングなどもそうで、どんなに(大学の)学問ができようが、センスがなくて、人に気に入られようとするようなサービス精神の欠落したものは全く機能しない。

管理の人間もそうで、総務業務ほど献身の気持ちが必要でさらに、厳しく嫌われることを言えるような人物でないと勤まらない。さらに、計数管理も必須だ。


実社会に出れば、大学の授業で学んだことで、すべて「できる」というわけではないのだ。

実社会ほど、実は、「人の気持ちがわかる」というセンスが必要なスキルなのだ。

でも、そのことを最高学府では教えてくれない。これは、家庭での教育というものだ。


このギャップは、様々な波紋を呼ぶ。

例えば、私の事業所に大卒の社員も配属される。それは立派な学歴で だ。

しかし、その学歴は、社内にそのまま持ち込んで役立つものではないのだ。

そういう仕事って意外に少ない。

確かに、弁護士や医師、教師などはそのままスライできるものかもしれない(いや、実際はそうでないと思うけれど)。

しかし、世間一般の仕事では、大学で学んだ知識だけではすぐに成果をあげられないのです。

たいてい、コミュニケーションのレベルで苦労しています。

年上の人間と話すことができない。配慮ができない。儲けようという意識もない。

結局、社会に出てから、再度教育せざるを得ないのだ。


自分もそうであった。


お客さまに、頭を下げられなかった。

いやいや、それ以上に、先輩社員に対して挨拶もろくにできていたとはいえない。

それでも、ひとつひとつ学ぶしかないのだ。


話はどんどんズレてしまったのだが、「普通」と「特別」という差というものは、非常に曖昧なもので、その時々のある人が決めたものでしかなく、決して万能ではないということ。これを小学校の先生に私は学んだのだ。


「だいすき」というドラマを見て、そんなことを思い返しながら、記憶を辿っていた。


今、大学受験の真っ只中である。

自分もそういう環境を経験してきたものとして、それはある意味とても大切なものであると思う。

だから「全精力」をかけ、「悔いを残さぬよう」「精一杯」やるべきだ。

少なくとも、オリンピックに出ることも、儲けることも、大学受験も同じように、「目標」を持って、それをなんとか達成しようということに変わりはないのだ。


だから、中途半端に、また、精一杯できた と思えなければどうしても達成感が得られない。


結果は結果でしかない。

確かに、すべて上手く行ってしまう人生。そういう人生を歩める人間もいることは否定しない。(実際にそういうものが自分も羨ましく思っていた)

ただ、それが実は大部分ではない ということを認識すべきだ。


「普通」と「特別」なんていう基準は、一つの基準でしかないのだ。


自分で基準を持ってもいいんじゃないか?



ずいぶん長くなったが、マラソンというのは、そういう基準を自分で持ってそれをクリアすべく努力できる っていうのが最高に愉快だね!


(なんだよ、結局、マラソンの話で〆るっちゅうのか?)