一年前の就職活動では「グローバルな人材」として自分を商品化していたのですけどね。
なんとも皮肉。
グローバルと国際化
最近どこを見回してもそこら中に溢れかえっている。
確かに今の時代ビジネス、アカデミア、社会的活動の何をとったってそれが越境的な広がりをもたないことのほうが難しいわけで。一国ですべてを完結させてしまおうと考えるほうがナンセンスだ。
しかし、世の中を飛び交うグローバルはとても多義的。
単純に日本を囲う国境を一歩外にでることがグローバルと評されることも少なくない。
それは、働きはじめてから特に顕著に感じられる。
例えば、某大手企業の元役員は
「うちの会社は世界中に拠点をもっています。ほら地図をみてください、拠点がないのはシベリアの永久凍土かアフリカの砂漠くらいです」と言い切った。
あまりにさらりと言ってのけたのではじめ彼なりのジョークを飛ばしたのかとおもった。
しかし、地図から顔をあげるとその人は至極まじめな顔をしていた。
永久凍土も十分雑な表現だが、問題は後者だ。
役員の人が示した地図上でその会社の拠点は比較的経済規模が大きい沿岸部にしかなかった。国にすると10カ国程度だろうか。
この人は、たった今その他40以上のアフリカの国をすべて「砂漠」だと言い放ったのだろうか。
それは失言を越えてもはや暴力だ。
また、異業種のメーカーの役員は自社のインドの工場を写した写真を見せながら、
「ほら、見てください。ここの水準って日本の江戸時代レベルでしょ?」と私たちに言った。
彼が笑いながら、放ったこの言葉の中には明らかに途上国を見下す視線が感じられた。
おそらく、メーカー特有の「タフさ」を強調するために、若いころから環境をかえて鍛えられるということを言いたかったことは分かった。
さらに彼はこう続ける「ほら、みてください。彼等こんな長屋に何家族もあつまって暮らしているんです。ほら、この写真でも外でご飯炊いてるのがわかるでしょう。こんなところに働きに行くわけですよ」
スライドで次に映しだされたのは、大量の日本食の保存食品に囲まれた若手駐在員が小奇麗なキッチンでピースしている写真だった。
果たして、彼はこれで自社の社員のタフさが伝わると思ったのだろうか。
「こんなところ」で現地労働者を住まわせているのは他でもないこのメーカーなわけであって、それが「大変」という自覚があるなら、それを改善してはどうだろうか。
もちろん、実際労働や賃金の基準はそう簡単にあげられるわけではないのはわかっている。
でも、そこで強調されるべきは横のマンションに住んでいる駐在員のきつさ、ではないはずだ。
これらの表現は自らの会社の「グローバル企業」として強調するための一句だったのだろう
しかし、それは完全に逆効果であるように私には思えた。
グローバル企業であるということは単純に日本の外にぼこぼこと自社の拠点をシムシティがごとく立てていくことではない。日本の外の政経、市場、文化を理解した上でビジネスをその知見に乗せて事業としてよりダイナミックな広がりを持っていくことが本来グローバル企業の本質であろう。
その大前提は他国との連携の中で相手をパートナーであると捉え、フラットな関係を心がけることである。もちろん、中枢機関と現場、親会社と子会社という構造は必然的に上下関係を生んでしまいそれは避けられない。しかし、その立場によるビジネス上の上下関係をまちがっても国や個人間の優劣に置き換えてはならない。
他国をあたりまえのように「砂漠」と言ってのける企業/人の語る「グローバル」に私は信頼はない。
その発言にある偏見と暴力に気づけない人には、新興国ビジネスは成功させられないと思うし、成功させてやるな、とまで思ってしまう。
インドの農村が「江戸時代」だと思っている経営陣には、これから40億人の市場といわれるBOP人口がトタン屋根の下でPCを使っていることも理解できないのだろう。
困ったことに、私の場合ここでさらに難しいのが自分がそんなうすっぺらいグローバル志向のおかげで評価されてきたということだ。
例えば就活時私は自分の珍しい転居歴をネタによく自分が「柔軟な思考力がある etc」、と主張して、「グローバル人材」としてラベルを貼り/貼られてきた。
でも、そんなことを言いながらそれがナンセンスだとは自分でも気づいている。
こんなこともある。
例えば、研修中私のことをほとんど知らなかったグループ内の他社の子がどこから聞きつけたのか、「【私の名前】さんって〇ヶ国語話せるってホント?」と急に言われた。
おそらく〇ヶ国語というのを滞在国数とすでに混同していているのだと思うと説明すると、彼と横でそれを聞いていた他の子の目が変わった。
「すごいですね」反対側に座ってた別の子が私に言った。
それまで、なんとはなしに普通に話していたその子たちはその会話以降、妙に構えたような、遠慮した話し方になってしまった。
その人がたどってきた「住所」だけで、その人の能力や正確ってどれだけ語れるんだろう。
住居の移動はそれだけとったら、本人の選択でないことも多い。その人自身の価値というより、その周りで変化してきた環境だ。極端なことを言ってしまえば、転居ばかりしていても空っぽな人もいるし、一つ場所に根をおろしていても聡明な人も居る。
転居の件だけを取り上げて、それを褒められたり、その前後であからさまに態度を変えられても私はちっとも嬉しくない。むしろ、「わたし」という個人をみてくれていないんだな、と悲しくなったりもする。だから、「〇〇ヶ国に住んだから、視野が広い」なんて薄っぺらすぎるし、そんなことを本気で信じ始めたら自分は腐っていると思う。でも、就活のときはそれ以上に相手を説得できる何かを持っている自信がなかったから、その短絡的な説明に乗っかるしかなくて、それが本当に嫌だった。
就活にせよ、そのグループ会社の子との会話にせよ、私はこんな「薄っぺらいグローバル」なくしては評価されないモノなのではないか、という思いに駆られてハッとすることがある。
例えば、私が生涯区内に住んでいる子だったとしても、面接官や周りの子は私を認めてくれるのか。
薄っぺらいグローバルにこれほど不快感を覚えるのに、それに依存して評価されてきた自分という存在がある。
その皮肉にまだ私はうまく折り合いがつけられない。
でも、もし私が何か自分の転居歴で得るものがあったとしたら、それは人と脱文脈化して接することかもしれない。タイについて知っている、オーストラリアについて知っている、そんなことを簡単にいうことは傲慢だし、逆に住んでいて分かるようなことは肌感覚の良い人なら数日の滞在や入念な調査でわかる。
むしろ、私は人を「〇〇人」「〇〇国」という箱に仕分けずにみることに説得力があると感じる。
大きな箱にたくさんの人をいれてしまうことで、見えなくなってしまうこと、誤解してしまうことはたくさんある。
「国際感覚」というものがもし少しでもあるとしたら、それは自分の頭を真っさらに自国の外をあるがままに感じ取ることではないか。
それはどこに住んできたとかそんなことじゃなくて、ただ誠実に、真っ直ぐに向き合うことだと私は思うんだ。



















