(1)人は死ぬ
マスコミでは、たまに事故で亡くなる人が報道される。あまり多い数ではない。それ以外に亡くなる人は、特に報道されない。だから、世間には死ぬ人はほとんどいないような印象を与える。
 
実際にはそうではない。日本の死者は1年間に100万人ほどである。(正確には119万人)。病気や事故で、1年間に100万人も死ぬのである。ずっと毎年そうなのだ。
 
マスコミで報道されるのは、ニュース性のある死に方で死んだ人だけである。ありきたりの死は、有名人以外は報道されない。
 
医療関係者(特に医者)は、死ぬ人が多いことを知っている。日常の診療の中で、死が多いことを念頭に対処する必要がある。
 
死はそんなに遠い話ではない。早い話、私は59歳であるが、59歳男性の平均余命は、22年である。この22年には、寝たきりの時間や、ガンの末期の時間も含まれる。最後に灰になるまでの平均の時間である。1年は、あっという間に過ぎるのだが、それが平均してあと22回で、終わりで灰になるのだ。
 
鴨長明は、「月が傾いて、山が近くなった」と表現した。私は時間を無駄にして、何もしないうちにそうなった。
 
人は死ぬというのは、重要な情報である。人は病気や事故で死ぬのである。手塚治虫氏は、他の漫画家より偉大であるが、それは、同氏が医者であって「人が死ぬ」ということを意識しているからだろう。
 
(2)人は人を殺す
黒澤明監督の映画「蜘蛛巣城」は、シェークスピアの「マクベス」を日本の戦国時代に書き直したものである。映画「蜘蛛巣城」では、主人公は、上司を殺す。そうして部下を殺し、友人を殺す。最後は部下に殺される。要するに殺人者の話である。
 
手塚治虫氏のマンガ「罪と罰」は、ドストエフスキーの「罪と罰」をマンガにしたものである。主人公は、若い学生である。主人公は、金貸しの老婆を、お金のために殺してしまう。これも殺人者の話である。

「マクベス」も「罪と罰」も、悪人を糾弾するような立場では書かれていない。主人公が(つまり自分が)人殺しであるという話である。自分もそうなのだ。
 
「マクベス」も「罪と罰」も古典である。長期に読み継がれているのは、人間の真実を描写しているからである。必須の教養である。
 
手塚治虫氏も黒澤明監督も、人間についての基本的な情報を、古典を通じて学んでおられる。そのような重要な知識を踏まえなければ、人の心を動かすような作品を作ることは不可能であろう。
 
「タバコ会社は、大勢の人が肺がんになっても、金儲けをやめようとしない」などと憤慨しても無駄である。みんな、そうなのだ。人殺しなのだ。日本の弁護士と裁判官が、離婚する夫婦を戦わせて、子どもの予後を悪くさせて、お金を得るのも同じことだ。
  
(3)真実は人を動かす
野口教授の「超説得法」は、偽悪的な本である。野口教授が、経済について、いくら正しいことを述べても、世間は説得されない。世間は「お金を印刷すればうまくいく」というリフレ派に説得されてしまっている。「それは、なぜだ」という思いが、野口教授がこの本が書いた動機であろう。

説得の一番重要な側面は、この本では述べられていない。それはあまりにも当たり前で、誰でも知っていることである。誠実さとか、正直さとか、正面からの努力とかである。
 
説得に当たって、正直に本当のことを言って、その内容が正しければ、人は説得されるわけである。それは正攻法である。物を売るなら、物が安くて高性能であれば、売れるわけである。自分を売り込むには、自分が有能であれば良いわけである。自分を有能にする努力をすれば良い。
 
しかし、それは当たり前の話である。実も蓋もない。内容が同じである場合に、それをどうやって売り込むかが問題になる。だから、正統的な正直な説得は、野口先生の本にはあまり書いてない。
 
医者は、患者さんやその家族を説得する場合がある。検査を勧めたり、治療を勧めたり、専門医への受診を勧めたりする。簡単には、納得してくれない場合もある。
 
そういう時も、私は「病気を重いように話す」ことをしていない。あまり重くないのに、誇張して話すと、患者さんは心配になって、大きい病院の専門医を受診して「軽い病気だ」と言われて、信頼関係が崩れてしまう。
 
私は、常に正直に現状を報告している。ただし、病気が重い場合や、悪化する可能性がある場合には、特別の注意が必要である。どの患者さんも「自分は死ぬはずがない」と思っているからだ。何度話をしても、危機感がうまく伝わらないことがある。話の内容を、その場でカルテに書いて記録に残すことが必要である。
 
私は、真実が一番相手を説得すると考えている。そのために、まず、充分に情報を収集して、本当の事実関係はどうなのかを確認する必要がある。そして、まず自分を充分に説得することが必要である。自分は、本当に心の底からそう思っているのか。自分が心の底から信じていることは、かなり受け入れてもらえる。自分が信じておらず、「こちらが都合がよい」だけの説得は、あまり受け入れてもらえない。
 
もう一つ重要なことは、説得するときには、自分に有利な情報を強調しないことである。後で全てが明らかになった時に、一部分だけを強調したこと(つまり、だまそうとしたこと)が明らかになる。革命の書を書いたジーン・シャープも、正直で正確な情報提供が必要であると述べている。
 
私が、自分のブログに書いている内容は、自分に有利なことを書いているのではない。科学的な真実を書いている。公平な立場から書いている。後で全てが明らかになる時が来るのだ。もちろん、賛成と反対の主張を足して2で割っているのではない。
 
野口教授は、この本では説得の偽悪的部分を述べておられる。例えば、キリスト教の聖書を「説得のビジネス書」として捉えて、説得のための強調(論理の飛躍)があると指摘しておられる。しかし、宗教には真実もある。宗教には、「ありもしない神や仏を信じ込ませて、お金を取る」以上の部分がある。「自分がして欲しいことを相手にせよ」などの人生論的な部分もある。また、カインの弟殺しなど、人間についての情報提供もある。神様が見ていると思えば、人は誠実に行動して、悪いことをしないであろう。本当は神なんかいないと思っていても、聖書は実用書として優れていて仕事や家庭がうまく行くので、それを信じているように振舞っている人がいるかもしれない。仏教にも説話がある。宗教には、経験や知恵を伝達する効用がある。
 
短期的に人をだますことは可能であっても、長期的には、真実しか人を動かさないのである。だが、真実は、人を動かすのである。野口教授のように一撃で説得しなくても、椿三十郎のように「じゃあ、勝手にしろ」と一旦突き放す手もある。また、先に信頼関係を築くような、長期戦略もある。
 
京都大学の山中教授は、大学院の入学試験の面接において、最後に「(私は)研究がしたいのです。通して下さい」と叫んだそうである。これは、やる気があることを表現したのだ。実際に、山中先生には、やる気があったのだ。それで入学後も、指導教官の助力が得られたのである。だまして入学しても、その後がうまく続かない。
 
ただし、真実があるだけでは相手に伝わらないので、それを表現して、コミュニケーションを行うことが必要である。それが説得である。
 
この世に残っているもの(古典)や、この世を動かしているものは、真実である。