共同親権という言葉は、すでにキーワード化されており、多くの人が使う言葉になっています。しかし、あまり適切な言葉ではありません。皆が使うので私も使うだけです。

この言葉は、親権(親の権利)に注目していて、子どもの権利を等閑視しています。「子どものために頑張る」という視点が強調されていません。

現状では交渉において、子どもは、同居親を有利にするための道具として使われています。子どもは傷つきやすい大切な存在として保護されていません。それにより、子どもの精神は傷つき、精神的予後が悪化します。父親は、父親としての大切な役割を果たすことができません。こうした点が問題なのです。

親権というのは親としての権利ということです。権利とは、例えば所有権がその例です。「権利を共有する」という発想は、共産党を思い出します。実際、共産党は、所有権などの財産権の共有を主張をしています。子どもを守るために働きたいのに、共産党運動にすりかえられているようなニュアンスがあります。

また「共同親権」は最終目標ではありません。それは、次のことを考えても分かります。仮に、明日1日で共同親権が実現したとします。「婚姻中も離婚後も、共同親権とする」という民法改正案が、明日の午前中に衆院の委員会と本会議を通過し、午後から参院の委員会と本会議を通過したとます。それでどのような変化が生じるでしょうか。単独親権では、父親と母親で意見が異なるときは単独親権者が決めますが、共同親権の場合は、意見が異なる場合は裁判所が決めるということです。

明日になっても、父親も今と変わらず、母親も今と変わらず、裁判所も今と変わらないのなら、判決も今と変わらないでしょう。父親が子どもと会う時間も、月に2~3時間のままということです。現状は、日本の裁判所が最も良いと考えている状態です。裁判所で必ず負けるものなら、裁判をするだけ時間とお金の無駄です。そうなら現状を今のまま受け入れるということです。共同親権だけが導入されても何も変わらない可能性があります。

逆に、現状のように単独親権のままでも、親子で過ごす時間が、月に2~3時間ではなく、月に10~15日であれば、それで充分であり、問題点の多くは霧散します。子どもとの親子関係は、維持されるでしょう。

(監護権を除いた部分の)親権というのは、例えば、子どもの住所を決める権利や、子どもの懲戒を行う権利のことです。子どもの住所は、一つ決まっていて郵便物が届くのならどこでも良いわけです。懲戒権などはあっても無くても、子どもが悪いことをしていれば、何が正しいかを教えてあげれば良いのです。その意味では、親権はあっても無くてもどちらでも良いものです。そのような親権を共有しても、あまり意味はありません。

子どもに対して父親の役割を果たすことが重要であり、そのためには、ある程度以上(3分の1以上)の時間を子どもと一緒に過ごさなければなりません。このことだけが重要であり、権利などは持っていてもいなくても、関係ないのです。仮に権利を持っていたとしても、適切に使わなければ何の意味もないわけです。

父親がさびしいからという理由で子どもに会って単に遊ぶだけで教育的なことを全くしないのなら、子どもから見て単に時間を無駄にしているだけであることもあり得るのです。

「共同親権」という言葉は、形式的で無価値なものを求めて、大切なものを軽視しています。

なお、子どもは、親とともに精一杯生きようとしています。子どもは、両方の親と「面会」しているのではありません。また、両方の親と「交流」しているのでもありません。そのようなものは、親子の関係ではありません。「面会」とか「交流」という言葉は、「二人の親を持つ」という子どもの権利を否定しています。

同じような理由で joint custody (連合監護)という言葉は、shared parenting (分担する育児)という言葉に置き換わりつつあります。また、visitation (訪問)という言葉は、parenting time (親子の時間)という言葉に置き換わりつつあります。

なお、分担育児よりも協力育児の方が望ましい状態です。分担育児では、子どもは、単に父の家と母の家を行き来するだけで、ダブル・スタンダードで生活するという状態です。子どもは、それぞれの家では、それぞれの親のやり方で生活します。しかし、協力育児では、父親と母親は、主要な価値観を共有し、基本的な情報を共有し、協力して統一的な育児を行います。

前に申し上げたように、共同親権(分担育児)が実現すると、父と母は、子どもを奪い合う必要が無くなり、子育てを協力するようになります。

また、社会運動としては、上記のような点を意識すればそれで良く、正しい目標を見失うことがなければそれで良いわけです。私は、分派運動や、反対運動を目論んでいるわけではありません。

求めるものは、あくまでも、子どもの健全な成長です。親の離婚で苦しんでいる子どもを助けたいだけです。「子どもを所有するという親の権利」を共有したいわけではありません。子どもの権利を守ってあげることにより、子どもの精神的な予後を改善させたいだけです。子どもには子どもの人生があるので、それを尊重したいだけです。生き生きとした楽しそうな子どもを見たいだけです。