クラーク先生についての本4冊(和書)と英語版Wikipediaを読んで、Wikipedia のクラーク先生の項目に、少し書き加えました。
 
・クラーク先生の父親は医者であったこと。
・クラーク先生は、11人の子どもをもうけたこと。(ただしうち3人は、1歳前に亡くなっていること)
・クラーク先生の2人の息子は、活躍していること。
・マサチューセッツ農科大学は、現在のマサチューセッツ大学アマースト校であること。
・黒田清隆は、後に総理大臣になったこと。
・離日後もクラーク先生は、黒田清隆や教え子と、手紙による交流を続けたこと。
 
・クラーク先生がBoys, be ambitious! と述べた場面を、本から引用して書き加えました。 
・主な教え子のリストを付け加えました。
・外部リンクに、マサチューセッツ大学内のページなど、7つを付け加えました。
・外部リンクに、和書3冊と洋書1冊のリストを付け加えました。

クラーク先生が住んでいたアマースト市は北緯42度22分にあります。札幌は北緯42度58分にありますから、札幌市の方が、アマースト市よりも約60キロメートルだけ北にある計算になります。北大西洋海流(暖流)もあるので、アマースト市の方が、少し暖かいかもしれません。
 
日本人の学生は、まじめでおとなしいので、クラーク先生は Boys, be ambitious! と言われたのであろうと思います。「青年よ、野心的であれ」ということです。
 
クラーク先生は、率先して酒を断ちました。一生の間、禁酒禁煙をするという誓約文を書きました。同行した2人のアメリカ人教授も、その誓約文に署名し、一期生の学生も結局全員が署名しました。翌年、クラーク先生がいなくなっても、二期生の学生の全員が署名したそうです。薬物依存症に集団で立ち向かうのは非常に有効です。アカデミックな断酒会です。

クラーク先生は、学校に西洋食を取り入れました。パン、ジャガイモ、肉、バター、砂糖が使われたそうです。明治初年では、脚気が都市部では重大な問題であったなど、栄養素の欠乏の問題がありましたから、西洋食は、栄養状態の改善に役立ったであろうと思います。しかし、現在、欧米の人は肉を多食して、多くの人が心臓疾患で亡くなっています。クラーク先生もそのような経過でした。ただしクラーク先生は、狭心症ではなく、心臓弁膜症であったそうです。現在では、食事については、日本の方が、欧米よりも良い状態になっています。
 
 クラーク先生が日本に来たのは、1876年です。19世紀後半は、近代科学が合理的な考え方を取り入れて発展した時期です。進化論は1859年に提唱され、大陸移動説は1912年に提唱されました。クラーク先生の専門の鉱物学や植物学では、世界各地に出かかけて研究することも、大切なことであったろうと思われます。研究者として日本の北海道にくることは、むしろ好むところであったはずです。実際、クラーク先生には、新種の発見など、この時期の研究業績もあります。
 
しかしクラーク先生は、偉大な科学者ではありませんでした。また偉大な実業家でもありませんでした。しかしクラーク先生は、偉大な教育者でした。教育により、何をどのように伝えることができるかを理解し、それを実践した教育者でした。実際、学ぶ者は学ぶことによって、教える者と同じ高さにまで昇ることも可能です。クラーク先生は、荒野に何も無いときでも、一層うまく、教育体制を組織できる教育者でした。相手に一番欠けているものを、効果的に指摘してくれる教育者でした。鎖国により遅れていた日本に、西洋文明の思考法を教えてくれました。
クラーク先生は、自分の学問と教育について ambitious でした。クラーク先生と関係を持つ者は、うまく行っています。よい影響を与えています。クラーク先生が関与した2つの大学も発展しています。