平九郎追悼ラン~後編~ | さあ奥武蔵に出掛けよう
平九郎追悼ランレポの続きです

なお前回と同様下記にご注意ください
青字:史料や解説板等による記述
黒字:ワタシの勝手な感想や脚色
顔振峠の平九郎茶屋まで来ました

平九郎茶屋
飯能戦争で敗れた平九郎は
一人で顔振峠にやってきました
峠の茶屋で草鞋(わらじ)を求め
その代価として店主に刀を預けました
平九郎が旧幕府方の兵士と悟った店主は
安全な秩父への逃げ道を勧めましたが
差し出したお茶を飲み残して
黒山へ下っていったのでした
この店主とは
平九郎茶屋の現女将の御祖母様です
顔振峠から秩父へは険しい山々を
を越えなければなりません
しかし黒山まで下りれば
故郷の血洗島まではほぼ平坦であり
最短ルートにもなります
平九郎は手負いの身体でありながら
安全な秩父よりも故郷血洗島を
目指したものと考えられます

山菜そば
一方でワタシはというと
差し出されたお茶を飲み干し
温かい山菜そばをいただきました
腹が減っては戦はできません

飯能アルプスと秩父の山々
太陽が傾いてきました
おそらく平九郎もこの時間帯に
下山を始めたものと思います
ここから黒山まで距離にして2.3km
それほど遠くはありません

坂尻(林道との分岐)
民家が見えてきて舗装路に出ます

黒山地区
そこからもう少し下ると
旅館(当時はありません)が見えてきます
渋沢平九郎自決の地
しかしここで
官軍と遭遇し孤軍奮闘後
路傍の石に座して自決しました
慶応4(1868年)年5月23日
享年22歳

全洞院
首は、はねられて今市(現越生)に晒され
骸は村人により全洞院に葬られました
このとき名前は分かっておらず
村人は壮絶な最期を遂げた青年を
「脱走様(だっそさま)」と崇めました

平九郎の墓
村人は命日には空腹を思いやり
墓前にしゃもじを供えました

法恩寺
一方で今市に晒された首は
法恩寺(現越生駅前)に埋葬されました

平九郎埋首之碑
明治7年(1874年)12月
平九郎の骸と首は東京都谷中の
渋沢家墓地に改葬されました
その後、昭和39年(1964年)に
この碑が建立されました

渋沢栄一一行
なお、渋沢栄一は
明治32年6月25日と45年4月14日の二度
平九郎の墓参に訪れています

以上、越生駅を発着として
本陣能仁寺から飯能アルプスの山々
顔振峠、そして平九郎自決の地・黒山
骸と首が葬られた全洞院・法恩寺まで
平九郎を偲びながら43.6kmを
自走したレポはこれにて終了です

平九郎 特別本醸造
おつかれ山でした

