15日のトレランレポです

今回は2021年大河ドラマ「青天を衝け」
第25回「篤太夫、帰国する」で放送された
飯能戦争の舞台となった能仁寺のほか
渋沢平九郎の軌跡をたどりました
なお下記にご注意ください
青字:史料や解説板等による記述
黒字:ワタシの勝手な感想や脚色
『飯能戦争と渋沢平九郎』
渋沢栄一が徳川慶喜の弟・昭武の随行で
フランスに渡航中に勃発した戊辰戦争
戊辰戦争の地域戦の一つである
飯能戦争(1868年)は
渋沢成一郎や尾高惇忠
そして渋沢平九郎など
栄一の縁者が中心となって結成した
旧幕府方の振武軍と新政府方の戦いである
飯能は埼玉県内唯一の戦場となった
飯能の町では
旧幕府方の本陣である能仁寺など4つの寺と
現在の市街地部分で民家200軒が焼失し
飯能戦争はわずか半日ほどで
新政府方の勝利に終わった
敗れた旧幕府方の兵士たちは四散し
成一郎と惇忠は伊香保へ逃れたが
敗走中に二人とはぐれた平九郎は
逃げ切ることができず
顔振峠を越えて黒山村に出たところで
新政府方に追い詰められ
22歳という若さで自刃した
「青天を衝け」では
平九郎役を岡田健史さんが演じました
格好良かったですね
本陣の能仁寺
曹洞宗関東三ヶ寺の一つ
龍穏寺(越生町)の末寺
飯能戦争で焼失しましたが
昭和11年に再建されました
能仁寺の裏手にある天覧山(羅漢山)
振武軍は櫓を建て幕を張り烽火を上げて
新政府軍の動きを見張っていました
山頂からは飯能市内と新政府軍が
駐屯していた扇町屋(現入間市)方面を
見渡すことができます
ここから焼け落ちる飯能の町並みを
呆然と見つめていたことでしょう
ここから振武軍の兵士たちは
飯能アルプスといわれる
伊豆ヶ岳・武甲山へと続く稜線を
敗走したものと考えられます
今でこそ
人気のハイキングコースとして
とてもよく整備されています
しかし当時は道なき道を
ひたすら進んでいったことでしょう
天覚山山頂から飯能方面です
もしかしたら平九郎も
この景色を眺めたかもしれない
大高山山頂
今回のルートで一番キツかった
前坂分岐
ここで直進し子の権現に進むか
右折し吾野宿へ下るか
平九郎が選んだ道は吾野宿だった
西武秩父線吾野駅
1929年武蔵野鉄道の終着駅として開業
当然ながら当時あるはずはない
ワタシも電車に乗れば
どんなに楽なことか…
しかし今のワタシには
平九郎の選んだ道を進む使命があります
腹が減っては戦はできぬ
平九郎はここでメシを
食べることはできたのだろうか
なぜ平九郎は顔振峠への
登り返しを選択したのだろうか
左の立派な杉の木は幹回りの太さから
おそらく樹齢200年は越えるでしょう
ここは吾野から顔振峠までの最短ルート
ということは
平九郎もこの杉を見たことであろう
もしかしたら疲労から
もたれ掛かり休憩したかもしれない
顔振峠の地名の由来をご存知だろうか
平安時代
源義経が奥州へ逃れる際
あまりの絶景に何度も振り返ったため
また、お供の武蔵坊弁慶が
あまりの急坂に顔を振りながら登った
そのような言い伝えがあります
いよいよ茶屋が見えてきました
顔振峠(かあぶりとうげ)
そして平九郎が立ち寄った茶屋
その名も「平九郎茶屋」
後編へつづく