【考え方その2】
今回のテーマは
「性善説」と「性悪説」🙋
ちょっと小難しい話かもしれないけど
そして
このテーマは賛否両論あると思います
人って考え方ひとつで、同じ状況でも、苦しむことも、楽になる事もあるので。
また、大人になっても自分の考え方ですら成長させていける。というのは、正直、できる人もいれば、できない人もいるかと思います。
えっ?
👱👲
「そもそも、それ何?」
👱👲それと「子育て」と
何か関係あるの?
ですって?😬
あるんだな~これが😀
しかも、ここからの話が
親であるあなたや子供の
気持ちや人生を、
楽にしてくれるかもしれない
そんなお話です
あくまで我々👩😀の解釈と考え方ですが、まあ聞いて下せえ
先に申し上げておくと
我々👩😀は
「性善説」は非常に問題が多い考え方だと思っています。
なので
我々のとる考え方は「性悪説」です。
ここで言葉の持つイメージにとらわれてはいけませんよ
なぜか?🤔
日本では多くの人の価値観は
「性善説」です。
それは、一方通行的媒体である
「テレビ」を始めとする
マスコミの報道の仕方が「性善説」的なため、そこから刷り込みを受けているのが理由と思われます。
また、国会における野党の考え方(特に与党追及の仕方)も「性善説」的な傾向があります。
「性善説」とは、平たく言うと
中国の古代の思想家「孟子」の考えで
人間の本質(性さが)は「善」である
という考え方(説)です。
これだけ聞くと
よさそうに聞こえるでしょ。
進めますよ
(性善説のロジック)
①人間は本質的に「善」なので、
人は皆「善人」であるべきもの。
「悪行」は「善人」が「悪」に染まる事で行われる。
②なので「悪行の原因」を取り除けば、本来の「善人」になる。
まさに罪を憎んで人を憎まず
③なので、どんな犯罪(例:猟奇的殺人や性犯罪)でも、その動機、背景、原因を究明すれば「悪行の原因」を突き止められるはず。
⑤それさえわかればそういった犯罪を無くしていく事ができるはず。
⑥なので、刑務所は「更正施設」。ここで規則正しい生活と集団生活、そして「規範」を学べば、重大犯罪者といえども、徐々に本来の「善人」を取り戻し、「自分の悪行を自省し悔い改める」はずなので、再び社会に送り出してよい。
ここで違和感を感じた人、
勘所いいですよ。
この、一見「理想的」に見える
「性善説」ですが、人間の本質を理想的に歪めて捉えているため。実効性が乏しいだけでなく、自他に「善人」である事を強いるため、数々の弊害があります。
そのため現実的ではない点が「社会主義」にも似ています。
この「性善説」の弊害例ですが
(よくある犯罪者の言い訳)
①自分は好きで犯罪を犯したのはない。
それは自分の「環境が悪かった」からで、自分にはそうするしか方法がなかった。
②自分は親に虐待されてきた。だから子供を虐待してしまったのは、
その「トラウマ」のせいだと思う。
③自分は「精神状態」が普通ではなかった。だから、気がつけば相手が倒れていただけで、相手に何かをした自覚がないし、思い出せない。
いずれも、「性善説」を拠り所にした発言と思えます。いずれの文章も冒頭に
「自分は本来善人である、ただ~」
とつなげて読んで頂くとわかり易いかと。
しかし、実際は、人間の本質である「欲」と「恐怖感」からくる典型的な
「責任逃れ」ですよね。
これで「犯罪が減る」
「善人が増えていく」と思いますか?
また、「性善説」に基づく
「子育て」にからんだ例ですが
わかりやすく若干デフォルメしてみると
①子供は本来「清い」ものである。それが「悪い子」になるのは、その子供本人てはなく、他に何か原因があるはず。
普通に育てていて「悪い子」になるはずがない。
②世の中は汚い面もある。だから子供には現実の世界を見せるべきてはない。
たとえ虚飾であったとしても、
いい面、美しい面だけを見せていけば「いい子」に育つはず。
③「親がなくとも子は育つ」という言葉があるのに、子供がうまく育たないのは、親である自分か配偶者のせいである
④👱あなた👦はなんで「普通」の事ができないの?
⑤「ありのまま」の自分👧でいい。努力する必要なんてない。
⑥👨私は働いているが、うちの妻👩は専業主婦。家事育児は全てを完璧にやって当たり前である
⑦👩うちの旦那👨は、平日は仕事で忙しいけど、休日ぐらいは家族や子供のために使うのが、当たり前よね
まあ、こんな感じですが
「性善説」が現実的ではない理由は
しょせん「知能の高い動物」に過ぎない人間を特別高尚なものとすることで、
「善人」である事を当たり前とし、
そうでないものを「異質」もしくは「異常」として、全てを「善」に改めないといけない。という考えであり、
そう自縄自縛、あるいは監視し合う事で、「いい社会になる」という理想の元に、お互いを窮屈にしてしまい、
結果、
①「本来の自分」を恥じる事で、「自信喪失」に陥いる。「人生の目的」を見失う。
②「本来の自分」を隠すために「偽りの自分」を演じる
③「他罰的」になる事で、自身を「正義の執行者」として「善人」であると勘違いする、あるいは周囲にさせる。
④失敗のリスクを犯して「チャレンジ」する事よりも「失敗しない」事を選ぶ人が増える
⑤「善人」である事を「他人」に強要する事により、非難、批判的になる
⑥「善人」である事が当たり前なので、「善行」に対するインセンティブか働かない
という事です。
様々な場面で、理想を説きながらも、実際にはこのようにパラドックス(矛盾、逆説)的な結果になってます。
では「性悪説」はどうか?
「性悪説」とは、平たく言うと
中国の古代の思想家「荀子」が孟子の「性善説」に反対して唱えた考えで
人間の本質(性さが)は「悪」である
という考え方(説)です
ここで言う「悪」は「弱い」と解釈するとわかりやすいです。
そこからくる我々の解釈としては
①人間の本質は
「欲」と「恐怖感」です。
②これがあるが故に、人は
欲深く、ずる賢く、面倒くさいし、楽したいし、努力なんてイヤ、人を妬むし、時に嘘もつく、人に悪く見られる事には耐えられない、さらに責められる事はもっと耐えられない、自分より弱い者を攻撃してしまいたくなる、「バレなければいいや」とも思ってしまう、人や世の中のせいにしてしまう、仲間はずれにされたくない、仲間はずれされた人を見て安堵感や優越感を感じる・・・・・等々
このように思う事は人間の弱さ故
むしろ
本来、人として当たり前
にもっているものである
③しかし、この
「人が本来持っている負の考えや感情」を
「理性」「価値観」
「考え方」「経験からの学習」等
で一つずつ抑えて、
コントロールしていく事で
少しずつ本当の「大人」になっていく。
なので、「年齢上の大人」
=「人として大人」ではない。
④そして、
その「欲」「恐怖感」「感情」を
完璧ではなくとも、高いレベルで
「コントロール」できる所まで
努力し続けた人の事を、
人は「人格者」と呼ぶ。
⑤なので、完璧な人など存在しない。
「完璧じゃない人」が
「完璧じゃない人」に対する訳だから、
そこには
「敬意(感謝)」と「寛容さ」
が必要
これを「子育て」に応用すると
①赤ん坊だから泣くのは当たり前、だから腹をたてる必要はない。それはコミュニケーションの第一歩。忘れているだけで自分も昔はそうだったはず。
②子供が泣き叫んだり、ワガママを言うのも当たり前(その要求を親が飲むかどうかは別として)。
それは、子供にとって交渉術を体得するための第一歩だと思えば、腹もたたない。
③公共マナーは大事だし、それを教えていく必要はあるが、それでも泣いたり、うるさくしてしまうのが赤ん坊や幼児。それで、顔をしかめたり、文句を言ってくる大人がいたら、それは見た目が「大人」で中身は「子供」。その人は自分が赤ん坊や子供だった事を忘れている残念な人かも。それでも周りへの配慮はいるけどね。
④家事、育児を完璧にできなくともよい。「完璧」よりも「継続」を優先。
あくまて「できる範囲」で。「無理し過ぎ」は続かない。潰れちゃう。潰れちゃ元も子もない。
④夫婦は「子育て」を含め「役割分担」でやっていくもの。
「平等」にこだわっても、
「全てを平等」など最初から不可能。
心の内も含め、お互いを攻撃し合うだけでろくな事はない。
そもそも、夫婦はライバルでもない。
むしろ「敬意」「感謝」と「寛容さ」が必須アイテム。
⑤親として「完璧」であるべきと思わない事。最初から「親」として必要なものを、全て持っている人などいない。
「子供の成長」を手助けしていく事で、自分も一緒に成長しながら「真の親」となっていく。
まだ、いろいろ考えられるけど、とりあえずこの辺で😀
【総括】
「性善説」という名前は知らなくとも、多くの人が、マスコミや周囲から押し付けられた価値観としての
「あるべき理想」に縛られて、
自分を責めたり、隠したり、
また、人を非難し、世間に嘆く事を、
私達👩😀はよしとしません。
これは減点法の考え方です
子育てにおいても、子供が赤ん坊だった頃に、「ハイハイできれば大喜び」「立てば大喜び」「しゃべれば感動」した日々は、どの親御さんでも覚えているはず。
つまり、「成長」とは「積み上げ」であり、加点法で考えるべきです。
そして、それは親である我々自身も同じです。ただ、子供より先の道を歩んでいるだけ。
「1人じゃ何もできない」所から始まるのが人間です。そして、最初から持っているものは、「欲」と「恐怖感」によって作り出される「感情」だけです。
そこから、何を積み上げて、何を作り出すのかが大事な事だと思います。
これを天寿を全うするまで数多く繰り返していく事が、生きる事なのではないかと。
そう思えば、生き方、育て方は、人それぞれであっていいでしょうし、人様に迷惑さえかからないのであれば、「普通」である必要すらありません。
「性悪説」は本来の人の弱さを肯定する事で、そこからいかに「成長」する事ができるか?
それを「絶対的」に、あるいは「相対的」に、進めていく道を導きだしてくれます。
この方が、物事をより正確に捉えられますし、本質も見抜きやすい。
自分も世の中も前向きに考えて、人に寛容さを与える事もできるかと。
気持ちを楽に、前に進んでいる感覚を持ちながら、子供や配偶者と共に歩んでいく。
もちろん、道は平坦でも一本道でもありませんし、言うなれば「フィールドアスレチック」みたいなものですが、それを協力して乗り越えて進んでいくような「イメージ」を持つ事で、日々の出来事が違って見えてきませんか?
最後に
「性悪説」を究極に言い表した言葉
だって人間だもの みつを
皆さんはどう考えますか?👩😀