久坂玄瑞 長州藩
[1840~1864享年25歳]吉田松蔭が最もその才能を認めた逸材アップ
「もし久坂玄瑞が生きていれば・・」と西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎といった維新の英傑たちが、ことあるごとにその名を口にした。
久坂玄瑞は萩城下で藩医の次男に生まれ、少年時代には藩校・明倫館で医学や洋書を学んだという。後に尊皇攘夷運動に荷担する彼からすれば意外な経歴である。
遊学中に吉田松蔭の噂を聞いて帰藩後は松下村塾に入塾した。このころから、高杉晋作、吉田稔麿とともに「村塾の三秀」と呼ばれて他の塾生たちから一目おかれる存在となる。また、松蔭はとくに久坂の才能に惚れ込んで、「彼こそが長州第一の俊才だ」と褒め称えた。
下関における列強四ヶ国連合艦隊との戦いの時には、いつも先頭に立って激しく戦った。度胸も行動もあったのだ。
下関戦争後、久坂は密かに京都へ潜伏して朝廷工作をおこなった。しかし、会津藩や薩摩藩など公武合体派が画策した八月十八日の政変により、長州藩は京都から一掃されてしまうあせるさらに新撰組による池田屋襲撃で潜伏中の多くの同志が失われたしょぼん
長州藩は力づくで京都を奪還しようとした。久坂も来島又兵衛や真木和泉らと供に諸隊を率いて京都に進軍した。これを阻止しようと幕府軍や会津藩、薩摩藩などの藩兵との間で戦端が開かれるこれが禁門の変である。
久坂は潰走する軍勢を立て直そうと、松の木に登って必死に指揮したが、鉄砲で撃たれ負傷して、そのまま兵火の中で自刃している。
久坂玄瑞は尊皇攘夷を思想から戦いへと移行させた立役者である。