島津久光 薩摩藩
[1817~1887享年71歳]過激な行動で騒ぎを起こす幕末の問題児
島津斉彬の異母弟。
斉彬の死後は彼の子である茂久が藩主となり、大御所的立場で藩政の実権を握った久光。一時は斉彬と次期藩主を争った間柄だが、兄弟の仲はは決して悪くなかったという。
同じ学問好きということもあって通じ合う部分も多かった。斉彬が登用した大久保利通、海江田信義といった者たちを彼も引き続き重く用いた。しかし、西郷隆盛とだけはウマが合わず、島流しにしている。[こいつは嫌いだな]と見るや、かなり激しいことをやってのける性格で、それが爆発したのは薩摩藩主導で公武合体を成し遂げようと勇んで京に上った時である。自藩の尊皇攘夷派藩士が都で勝手に過激な活動をやっていることに怒り、彼らの本拠である伏見の船宿・寺田屋を襲撃させて皆殺しにしてしまった。こと後に江戸から再び京都に向かう道中、横浜近郊の東海道で彼の行列を横切ろうとした騎乗のイギリス人を殺傷する事件を起こしている。イギリスは謝罪と賠償金を要求してきたがこれを拒絶。「ケンカ上等
」と薩英戦争を起こすあたりは、幕末期の殿様としては度胸もある。
維新後は権力を握りつづけ、廃藩置県に猛反発、一日中花火を打ち上げるという派手な抗議をおこなうあたり、最後まで過激な殿様だった。
[1817~1887享年71歳]過激な行動で騒ぎを起こす幕末の問題児
島津斉彬の異母弟。
斉彬の死後は彼の子である茂久が藩主となり、大御所的立場で藩政の実権を握った久光。一時は斉彬と次期藩主を争った間柄だが、兄弟の仲はは決して悪くなかったという。
同じ学問好きということもあって通じ合う部分も多かった。斉彬が登用した大久保利通、海江田信義といった者たちを彼も引き続き重く用いた。しかし、西郷隆盛とだけはウマが合わず、島流しにしている。[こいつは嫌いだな]と見るや、かなり激しいことをやってのける性格で、それが爆発したのは薩摩藩主導で公武合体を成し遂げようと勇んで京に上った時である。自藩の尊皇攘夷派藩士が都で勝手に過激な活動をやっていることに怒り、彼らの本拠である伏見の船宿・寺田屋を襲撃させて皆殺しにしてしまった。こと後に江戸から再び京都に向かう道中、横浜近郊の東海道で彼の行列を横切ろうとした騎乗のイギリス人を殺傷する事件を起こしている。イギリスは謝罪と賠償金を要求してきたがこれを拒絶。「ケンカ上等
」と薩英戦争を起こすあたりは、幕末期の殿様としては度胸もある。維新後は権力を握りつづけ、廃藩置県に猛反発、一日中花火を打ち上げるという派手な抗議をおこなうあたり、最後まで過激な殿様だった。