桂 小五郎(木戸孝允) 長州藩
[1833~1877享年45歳]長州藩志士のリーダー維新の三傑の一人
彼は長州藩医・和田昌景の長男に生まれるが、後に家禄150石の桂九郎兵衛の婿養子となり、桂姓を名乗るようになった。
[無事これ名馬なり]というが、長州藩でも最も早くから倒幕運動に荷担して暗躍しながら、暗殺者の追求を巧みに回避して維新まで生き残り、長州倒幕政権のリーダーにまで昇りつめた彼の生き様こそは、この格言を体現したものといえる。
少年時代には悪戯で船を転覆させられた船頭に額を殴られ、一生消えない三日月の傷跡が残った
剣の腕前もかなりのもの。1852年江戸三大道場の一つである斎藤道場で修業するが、身長6尺(約174センチ)と、当時としてはかなり長身の大男。神道無念流の免許皆伝を得て、入門一年にして塾頭となった
しかし、生涯で人を殺したことはない。
その後、活躍の舞台を京都にうつし何度も敵に襲われたが常に逃げの一手であった。それに変装名人でもあり、そのため[逃げの小五郎]という異名を持つことになる。
池田屋事件でも直前に池田屋を離れて逃れている。
その裏には愛人の芸子である幾松らの助けがあったらしい。
この後二枚腰の粘りで生き抜き長州藩の代表として第二次長州征伐[長州側では四境戦争と呼んだ]に勝利して反攻に転じ、この頃から木戸孝允と名を改める。
倒幕後は明治政府のリーダーとして期待されたがその後は精彩を欠いている。西南戦争の頃はすでに重病の床にあり、[西郷もいいかげんにしないか]という言葉を最後にこの世を去っている。
[1833~1877享年45歳]長州藩志士のリーダー維新の三傑の一人

彼は長州藩医・和田昌景の長男に生まれるが、後に家禄150石の桂九郎兵衛の婿養子となり、桂姓を名乗るようになった。
[無事これ名馬なり]というが、長州藩でも最も早くから倒幕運動に荷担して暗躍しながら、暗殺者の追求を巧みに回避して維新まで生き残り、長州倒幕政権のリーダーにまで昇りつめた彼の生き様こそは、この格言を体現したものといえる。
少年時代には悪戯で船を転覆させられた船頭に額を殴られ、一生消えない三日月の傷跡が残った

剣の腕前もかなりのもの。1852年江戸三大道場の一つである斎藤道場で修業するが、身長6尺(約174センチ)と、当時としてはかなり長身の大男。神道無念流の免許皆伝を得て、入門一年にして塾頭となった

しかし、生涯で人を殺したことはない。
その後、活躍の舞台を京都にうつし何度も敵に襲われたが常に逃げの一手であった。それに変装名人でもあり、そのため[逃げの小五郎]という異名を持つことになる。
池田屋事件でも直前に池田屋を離れて逃れている。
その裏には愛人の芸子である幾松らの助けがあったらしい。
この後二枚腰の粘りで生き抜き長州藩の代表として第二次長州征伐[長州側では四境戦争と呼んだ]に勝利して反攻に転じ、この頃から木戸孝允と名を改める。
倒幕後は明治政府のリーダーとして期待されたがその後は精彩を欠いている。西南戦争の頃はすでに重病の床にあり、[西郷もいいかげんにしないか]という言葉を最後にこの世を去っている。