ほら...

またこんなこと言う...

とある方からご質問いただいたんです。

護摩祈祷のあとに「ここで護摩祈祷をしたからといって願いが叶うわけじゃないですから」って言うけど、どういうつもりやねんコラ!ってね。

いやいや(笑)そんな輩な感じじゃないんですよ。
素敵な女性から純粋なご質問をいただいたのです。

まぁ、結論から言えば、叶わないんです。でも、叶うかもしれません。

 

その前にちょっと私事を。

小学校6年の頃に大きな交通事故に遭遇した あたくち 。

母親が運転していた車が、高速道路の右側車線に(しかも右カーブの途中)停止していた車を避けきれずに100km/h以上のスピードで追突しちゃったんです。

助手席に乗ってた僕は、フロントガラスに顔から突っ込んだらしく気が付いたら顔中血まみれ。

激痛の十何針を縫って少し気持ちが落ち着いてきたなぁとホッとしていたら、右目にフロントガラスが刺さっていることもわかり転院して水晶体摘出。

 

その日その瞬間を境に人生が大きく変わり、顔中にできた傷跡と見えなくなった右目と生きることになりました。

 

僕の通っていた小学校はカトリック系で。

いつも学校に行くと、まずマリア様に手を合わせて

1日何回も祈りを唱えて、時には聖歌も歌って、、、

 

5年以上もそうしていたのにマリア様は救ってくださらなかった。

何度も何度も「悪い夢だったんだね」と母親と笑いあいたかった。

夢じゃなかったとしても、祈ることで顔の傷が早く良くなってほしかった。

でも、その、僕の必死な願いや祈りは叶うことはなかったんですよ。

どうにも暗くて、辛くて、人の視線にビクビクと過ごした暗黒の時代に

マリア様やイエス様は全く何もしてくれなかった。(と思っていた)

 

正直なところ憎んでさえいました。


あの時に、神様や仏さまと一度ご縁を切ったのだと思います。


でも、人生は不思議なもので...

今こうやって僧侶として仏道の真っただ中に身を投じている。


その経緯は改めて別に書きますけれど

 

そこで、回向(えこう)というものを知りました。

真言宗では

 願以此功徳 (がんにしくどく)

 普及於一切 (ふぎゅうおいっさい)
 我等與衆生 (がとうよしゅじょう)

 皆共成佛道 (かいぐじょうぶつどう)
と唱えます。

意味はこんな感じになります。
 願わくはこの功徳を以(も)って 
 普(あまね)く一切に及ぼし 
 我等と衆生(しゅじょう)と 
 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを

ここに至るまでにちゃんとした流れがあって。
安楽寺ではこんな次第を毎日の「朝のお勤めLive配信」でお唱えしています。

 

いろんな日々積み重ねている罪障を懺悔して(懺悔文)

仏さまや教えや実践する僧侶を深く敬愛して(三帰三境)

善く生きるために必要な戒律を改めて唱えて(十善戒)

仏さまと同じ道を歩むことを心に刻んで(発菩提心・三昧耶戒)

大切な教えに触れられることに感謝して(開経偈)

そのみ教えが説かれている経本を共に読んで(般若心経)

大切にする仏さまの御真言やお大師様の宝号を唱えて

 

 

最後の最後に回向文なんです

そこで何を言っているかといえば...

「私はこうやって有難い教えに触れて、一緒に唱えて、その功徳をいただくんだけど、それは自分のためじゃなくてみんなが共に仏さまの御心により近づくことができるように祈ります」

 

ということなんです。これは、護摩祈祷だって同じ。
 

私たちは、ついつい、自分がおこなったことが自分の成果や利益になることを望みがちだけど、そんな狭いことじゃなくてみんなに少しずつ幸せのお裾分けができたらいいよね。

それは、逆に言えば、あなただって私だって、誰かの有難い功徳をいつもいただいているんだから。

ということです。

 

「だから、あなたが自分の為に願う祈りは、きっと叶うことはないだろう。でも、もし叶ったとすれば、他のたくさんの人が仏さまの前に膝をついて頭を下げ、手を合わせて必死に祈り願った功徳があなたにも巡ってきたんだよ。」


そう思うくらいが、ちょうど良いんじゃないかい?

ということです。


僕は、冒頭の自分自身の経験もふまえて「俺が祈ればあんたの願いは叶うからな」なんてことを言い切る勇気はそもそもないんだけれど、でも、本当に叶うとすれば僕が祈ったからだけじゃない。


もちろん、ひとつひとつの願いを不動明王様に届けるため、一所懸命に加持祈祷をします。それは御祈願の数に関係なく、いつも、その一座に今できる全てをかけます。

今日、この護摩堂に入っているみなさんが祈り願った功徳が巡ってきて、これまでもたくさんの方が手を合わせて祈ってきて、それだけじゃなく、今もこの瞬間に必死に祈っている方々が色んな場所にいて、その功徳の器が満たされた時が「願いが叶った」時なんだよってことなんだと思います。

 

少なくとも、今は、そう考えています。
 

だから

安楽寺が、護摩堂が、そんな祈りや願いが集まる場所になるように。


僕はこれからも必死に、場を整えて、日々祈りを重ね続けます。


いつか、誰かの、大切な祈りや願いが叶いますように。