私はずっと進める方向に、裸足であろうとも厭わずに突き進んでいた。
過去というものを思い出すのが億劫でしかたがないのは、あまり楽しいといえるものではないからだ。
きっと誰かもっと悲しいとか苦しいとか、私なんて比べ物がないぐらいの人がいるはずだけれど、私にとっては只苦しかったのだ。
何がどのようにといわれると、とても些細でつまらないものであったと思う。
そしてその些細な足枷に私は囚われていた。
今ももうないはずの足枷が、後ろを振り返るとあるのだ。
重くないはずの足枷が、歪を帯びて何倍にも重くなっているように思える。
私の周りでは、死にたがっている人が何人かいる。
手首を切ったりして『これでは死ねなかった』と、まだ真新しい傷を見せてくれる。
『そうなんだ』と軽く返す私。
『もう、限界なの。煙草が吸いたい、イライラすると煙草が増えてしまうんだよね』
という子もいる。
煙草はつい最近吸い始めた子だ。むせてしまうので肺に煙は入れないらしい。
『そうなんだ』と軽く流す私。
本当に死にたいんだったら首を切ればいいのにと思った私。
もう限界といい、あの人は駄目だと愚痴を言いながら、その周りから愚痴を言われていることを知っているのだろうか。
彼女等にとても否定的な私。
自ら『死にたい』などということは絶対言いたくなかった。
『もう限界・サイアク』などのような言葉はあまり言いたくなかった。
その言葉が本当だとしたら、そこですべてが、なにもかもが終わってしまうからだ。
『死にたい』と口にした人は、本当の本当には死ぬ気なんて無いことは分かってる。
彼女は『どうしたの?』『大変だったね』といった言葉を待っているのだ。
誰かの、言葉に簡単に傷つき(言うほうも毒舌な人なのですが・・)、知人がやってくると涙を流して、『お前なんて、必要ない』と言われてしまったと訴えるのだ。
そしてまた他の人が来ると、泣き出し落ち込みだし『どうしたの?』という言葉を待つのだ。
以前事務作業を同じ場所ですることがあり、そのときのことだ。
強かだなと感服した。
彼女達も必死で、私にとっては些細なことも、大きなハードルや壁であることはなんとなく分かる。
それを、悪いなと思う自分のほうに問題がある。
些細なことに一番囚われているのは私のほうなんですよね。
自分を許すことと甘やかすの区別は難しいです。