1で書いた、男女の本質、についてはまず男女における会話の効能の相違

を描ききっていた。男は会話を論理で捉え問題解決に使う。そうならない

会話は無駄とさえ考える。だが女は異なった用途に使うのである。

男の会話は問題解決、女の会話は共感と連帯。現代においては語り尽くされた

感があるが、未だに男性はこのような心の癖がある。70年前の異国でさえも

この法則に外れていないことに、いや現代よりもより露骨にこのことが表現されて

いたことに感じ入った。こうして男女はすれ違うのだ。すれ違う以前にザンパノは

クズ男の設定だから、ジェルソミーナははじめから苦悩を背負う役回りなのだ。

 

カトリック系キリスト教の荘厳な祭りや、その祭りで出会うイル・マットとその

芸。展開はあくまでもテンポよく映像は秀逸である。もちろん現代の映像と比較し

てはならないが、フェリーニ監督が映像を通して言いたかった言葉が、カタコトだ

が伝わってくる気がする。そしてそこからが、この物語の本題に入っていく気がし

ながら見ていた。そこからの展開は、これを見た人に説明は必要ないだろう。

多くの評論家やファンが秀逸なレビューを残している。

 

ここはイタリア、特に後半の大半はカトリックの本場ローマである。

物語の価値観や判断基準はこの宗教によってなされたものなのだろう。物語の骨子も

ここから来ている気がしている。その風景を見られただけでも価値ある映画だった。

ザンパノが乗っているオート三輪はアメリカ製だと作中語られるが、戦後間もない

イタリアでも高評価だったのだろうか。あのカタチの乗り物って「ローマの休日」に

も出てくるよね。ハーレーなのかインディアンなのか…

イル・マットはたしかトッポリーノじゃないかな。知ってるひといたら教えてくださ

い。

 

物語のラストは言うまでもない悲劇である。この世を去ったジェルソミーナのことを

語りのみでザンパノは知ることになる。ベタな言い方で言えば

「大切なものを失った者の悲劇」「大切なものは目には見えない。一緒に過ごして

いても気付かないものである」と、こうなるのだが粗暴で狡猾なザンパノに対する

ある種の対極の可憐さを持った存在との対比、それらが織りなす物語がこの映画の

価値と言えるのではないか。

 

現代の女性はもっと雄弁である。ここまで虐待されたらさっさと去られるのがオチ

というもの。70年前だから成立した映画?いや、その奥にある本質は今も変わっ

てはいない。自分はザンパノほど粗暴ではないし、女性軽視はしていない…して

いないぞ。だが、女性特有の長い話に絶対辟易しないほど人間は出来ていないし、

ついつい結論を急ぐ男性脳も持ち合わせている。これを機会に女性の長話ににも

付き合える自分になりたいが、そこに至る修行もまた大変そうである。それゆえ

50年前、この映画を見たいと志した思いは無駄ではなかったし、あの頃見ていた

らまた、この映画の評価も違ったことだろう。愛車の生まれた風土も垣間見れたし

ね。今年のGWのエポックはこれでしょう。