再び、母の手術 | 徒然なるままに・・・

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皆さま、こんにちはニコニコ

約1ヶ月ぶりの更新となります。
遅くなりましたが、早くももう3月、
今月もよろしくお願いします🙏


今回は、先日、また母の手術で帰省したのですが、
その時のことを、箇条書き風にここに残して
おきたいと思います。
私の母(私事)のことなので、ご興味のない方は
スルーして下さい。





2月27日
夜、突然実家の兄からLINE。
母が、脳腫瘍か膿瘍の疑いがあって、膿瘍なら
すぐにでも手術しないと命が危ない、と医師から
説明を受けた。多分、病歴から見て、膿瘍だと
思われるが、またしても全身麻酔の、頭を開く
手術となるため、前回よりさらに高リスク、
手術中に命を落とす可能性もある。
かと言って、何もしなければ、2週間持つかも
分からない、やはり命が危ない。
今晩中に、家族で話し合い、手術を受けるかどうか
決めてほしい、と医師に言われた、と。





私たち3兄妹と、父は、慎重に話し合い、
結果、手術を受けることに決めた。
朝までかかるかも、と思い、職場に電話を入れ、
翌日の朝の出勤を免除してもらう。
朝まではかからなかったが、夜遅くまで
話し合って、一人一人の意見を聞いた結果。







2月28日
朝、兄が病院の医師に電話を入れる。
手術を受けるのでよろしくお願いします、と。




私は買い物や、荷造りを開始。
明日手術だったら、朝一の高速バスで、
また千葉に帰省するつもりだった。




夕方、兄からLINE。
手術は明日の午後に決まった。
12:30までに病院へ来てくれ、との指示。
4人で行くつもりだったが、コロナ対策で、
付き添いは3人まで、と病院側から言われる。




兄と父は外せないので、私と妹の、どちらかに
なった。朝一のバスで行っても、約束の時間まで
間に合うかわからないから、妹に譲ろうとした。
ところが、妹は今、体調を崩していて、咳が
ひどく嘔吐もあって、行ける状態ではない、
という。ということで、急遽付き添いに行くのは
私になり、明日に間に合うように、これから
新幹線で千葉へ向かうことに。
諸用で、家を開けていたパートナーに、至急車を
手配してもらう。
職場にも電話、事情を話し、休みをもらう。
明日行こうとしていた、美容院にも、キャンセル
の手続き。





三島発東京行き、21:18発こだまに乗り、
東京、そして千葉へ。
夜遅く、平日なのでそんなに混み合っては
いなかったのが救い。何せ、荷物が多かったので。
新幹線の中から、前回泊まったホテルの予約サイト
で、2泊3日の予約を入れる。





そして、夜中0時近く、ようやくホテルへ着き、
チェックイン。遅い夕飯(コンビニ弁当)をとる。
2時頃寝て、4時すぎ、隣の部屋から鳴るアラーム
音の繰り返しで、こっちが目が覚めてしまう。





朝早くから、コロナの抗原キットで検査。
予想通り、陰性。
シャワーを浴び、支度。
10時頃部屋を出て、11時前、実家着。
ランに吠えられる笑い泣き
あとは小屋から、なかなか出て来ようとしなかった。ダメだ、完全に忘れられている?





12:30に間に合うよう、父と兄の3人で
車で病院に向かう。
着くと早すぎて、少し待機。
やがて、待合室に通される。




13時ころ、母が手術室に入るところを、
ベットを囲んで母に声がけ。
母はもはや話す力もなかったが、声がけに
微妙に反応していた。
「みんな待ってるからねー!ランも待ってるよー!
お母さん、頑張ってー!」






13時手術開始。
ただただ、待つのみ。
兄がイヤホンをしながら目を瞑り、瞑想していた。
後から聞くと、イヤホンでガイドを聴きながら、
手術の間中ずっと、母に良いイメージ(気)を
送っていたんだそう。
さすがに私は3時間もそんなことはできないが、
一生懸命、祈りのパワー全開で、神と仏に
母が助かるよう、祈った。






3時間が経って、ようやく手術室から医師が
出てきた。母は無事だった。
主治医から説明を受けた。
やはり、膿瘍だったこと、かなりの量だった、
それらを取り除き、頭にドレーンをつけた、
これからの課題は山積みだが、とりあえず手術は
成功した、と。
だいぶ省略したが、兄が特に事細かに質問をし、
今の状況、これからのことなど、主治医に
聞きまくる。私は「母は頭が激しく痛くなったり
とかしますか?」とだけ、質問した。
痛くないことはないが、ものすごく痛くなる、と
いうことはないと思います、と医師が答えた。
あとは私は、「最善を尽くして頂き、誠に
ありがとうございました!」と頭を下げた。





母が病室に戻されたところで対面。
と言っても、母は麻酔が効いていて、呼吸器も
つけたまま眠ったままだ。
しかし、呼びかけに、わずかに目がピクリと
動いた。聞こえているのかいないのか?
よく分からないが、母に
「お母さん、よく頑張ったねー!」
と声がけ。術後直後で、あまり話しかけても
可哀想なので、ほどほどにして、また来るね、
と病室を後にした。







皆、疲れきっていた。
スーパーで弁当を調達して帰った。
夕飯にそれを食べた後、また兄と色々な話をした。
その話の中で、兄が言っていたことに大きく驚嘆した。母は、私がいなくなってからひどく寂しがっていたこと、私の手料理を恋しがっていたこと、
そして何より、ピアノを聴きたかったようだ。





母は、内向的で、自己主張のできない人だった。
私が一緒に暮らしていた頃、約8年?に渡って
家族4人分の夕飯を、買い物して作っていたが、
どんなに手の込んだものを作っても、誰も、
なかなか美味しい、と言わなかった。私は
やることなすことトロいから、夕飯作るのに
2時間から3時間を要したこともあったが、
それでも手を抜かず作る料理に、何の感想も
言わない家族に、内心辟易していた。
だけど兄が今言うには、私がよく作っていた、
カボチャのポタージュが食べたい、とか、
あれが食べたい、これが良かった、と言っては、
兄を困らせていたらしい。
入院が長くなり、反応も鈍くなってきたが、
この前私がピアノを弾いている写真を見せたら、
これは!というように、すごく反応していたという。お母さんは、お前のピアノ、特にカスキ(フィンランドの作曲家)が聴きたいんだよ、、、
兄の言葉に、私はただ驚くばかりだった。
自分が、そんなに愛されていたとは知らなかった。





というのも、まだ小学4〜5年の頃、私は母に言われたことがある。
「あんたなんて生まれて来なきゃよかったのよ。」
この一言は、ショックで、以来トラウマになって
いた。それに、何につけ、母は私には冷たかった。
私は母から愛されている実感を得たことが、
ほとんど皆無で育った。それは父にしてもそうで、
だから私は、生まれつきひどく孤独だったのに、、、離れてから、母がそんなに私を思ってくれていた
とは、、、知らなかった。





夜21時頃、家から、兄がホテルまで車で送って
くれた。今日一日のことが頭を駆け巡った。




翌日、11時チェックアウト。
千葉で時間を少し潰してから、新宿バスタへ。
本当は、友人3人に、急で悪いが会えないか?と
打診したが、皆仕事で断られた。
無理もない、平日の昼間なのだから。


新宿16:40発、大平21:15着の高速バスで
帰る。





以上、長くなったが、忘れないようにここに
書き残しておく。







そんなこんなで、バタバタと慌ただしい日が
続いていて、皆さんへのご訪問も、ほとんど
出来ずじまい、滞っていたことをお詫びします。






気づけばもうすぐ春。
今回の帰省でも、また写メを撮り忘れたので、
最後に、最近私が撮った、伊豆の桜の写真を
載せたいと思いますウインク

最後までお付き合い下さいました、心優しい方々、
ありがとうございました😭