今回の話は、日ごろの活動とはちょっと違う話です。
大学時代、私は 宮城県仙台市に住んでいました。
日本三景の一つ「松島」があり、海岸があり、山もあり、「杜の都」と呼ばれる美しい街並みがあり、
人柄もよく、いつかまた住みたいと思っているぐらい大好きな街です。
その街がある時を境に、ガラッと変わってしまいました。
「巨大地震・大津波」
もっとも心配していた友人のうちの一人は、出産準備で宮城に里帰りしていました。
1週間ぐらいたち、やっと連絡が来ました。
友人からのそのままの文章を、承諾を得たので載せます。震度7、激震地にいた友人です。
思いを感じとってください・・。
「ご心配おかけしましたが
無事です!
生きていることに感謝!!!!!
3月11日…臨月前日(35週6日)。
14時46分。
その時間、祖母と一緒にテレビを見ていた。
急に家の中のものがカタカタ揺れはじめ、
あっという間に揺れは強く大きくなった。
9日にも震度5を経験したが
その時は近くにあったチョコを手にもって
家の外に出る余裕があった。
…が、今回の揺れは違った。
照明は大きく左右に揺れ、
テレビは前後に揺れ今にも倒れそう。
棚の中のグラスやカップは雪崩のように倒れ、
音を立てて次々に割れていく。
棚の上にあった置物も勢いよく落ちてくる。
大人数人でないと動かせない家具がカタカタと勝手に動く。
窓ガラスも今にも割れそうな音を立てている。
家の中が一瞬のうちにぐちゃぐちゃになった。
(お願い!早くおさまって…)
心の中で強く願いながら、
左手ではいつ倒れてくるかわからない棚の前にいる祖母の頭を
クッションで覆い、右手で大きなお腹を抱えた。
震度7の揺れは呼吸するのを忘れるくらいの恐怖で、
一瞬にして全身が硬直した。
逃げなきゃ…そう思っても全く動けない…体が一歩も動かない。
声も出せず、ただただ地震がおさまることを祈るばかり。
その時、お腹がポコって動いた!
(そうだ!落ち着こう。深呼吸深呼吸…大丈夫、絶対大丈夫!)
何分間揺れは続いたのだろう…
2分…いや3分?それ以上?
強さはもちろん、確実に今まで経験した地震の中で一番長かった。
長い揺れが弱まった時、
着のみ着のまま雪が降る外に飛び出した。
ぼとぼとと降る雪はいつも以上に冷たく感じた。
寒いから家の中に入ろうとするが何度も大きな余震が続き、入れない。
直ぐに電気、水道のライフラインが止まった。
外はすでにうす暗く、心細かった。
家にあるすべての懐中電灯と電池を集め、
ラジオを囲み、暗い夜を過ごした。
翌日朝、メールをくれた方々に返信するも途中で電波がなくなり
完全に外部との連絡が取れなくなった。
外部からの情報はラジオと、
悲惨な現状をありのまま載せた薄っぺらい新聞。
そして消防に勤める父親から聞く生々しい被害の情報だけだった。
被災地のど真ん中にいるのに情報が少ない。
気仙沼や大船渡、名取に住む親族や幼馴染の安否が気になるが
知る術がない。
心配してくれている旦那や親族、
友達に大丈夫だよと無事であることを伝えることさえ出来ない。
12日早朝までに受信できたメールと着信履歴を読み返しては
「大丈夫だよ」と心の底から届かない返事をした。
そんな時、地元の友達が少ないガソリンの中会いにきてくれた。
顔をみた瞬間、ほっとした。
こうして誰かに会えることって幸せなんだ、そう感じた。
幸いにも実家はLPガスだったため食事はできた。
母親が限りある少ない食材の中で栄養ある献立を考えてくれた。
少ない食材を近所の方と分け合い
周りの方はお腹を冷やさないようにと
貴重なホッカイロを分けてくれた。
懐中電灯の薄暗い灯りの中で、寒く長い夜を過ごした。
暗く長い夜はいつまで続くのだろう?
寒さと続く余震の恐怖で眠れない。
入眠できても小さな揺れや物音で目が覚める。
2、3時間でも眠れたらいいほうだった。
「良かった…今日も生きてる。」朝がくるたびにそう思った。
水道は止まっているため、給水車までもらいにいく。
雪の中、3時間並んだ時もあった。
近所の方は6時間も並んだと。
妊婦なんだから体を清潔にしなきゃと、
家族は貴重な水を沸かし優先して清拭させてくれた。
汚水はトイレの水に再利用した。
14日になってもライフラインは復旧しない。
お産する病院は機能しているのか・・・?
大きなお腹を見ては不安になった。
(まだお腹の中にいていいからね!)
何度も言い聞かせた。
それでも不安は募り、我慢しようとするたびに涙があふれた。
ひとりになると怖くて怖くて涙がとまらなかった…。
3月14日は特別な日でもあった…。
結婚1年目の記念日だった。
里帰り中だから会えないことは覚悟してたけど、
まさか声も聞けない…
ましてや無事だよって伝えることもできないとは思わなかった。
ストレスは禁物と思い、気晴らしに編み物をした。
もちろんやる気になんかなれないのだが、
自分自身にノルマをかけて無心で編み続けた。
連絡の取れなかった弟が残り少ないガソリンで
仙台から心配して来てくれた。
無事であることが分かっただけでも十分なのに、
栄養をとらなきゃいけない妊婦の義妹がいるのに、
実家のことを心配し、
大きいおにぎりを5個も作ってもってきてくれた。
味気ない、いびつなおにぎりだったけど愛情たっぷりのおにぎり。
最高のおにぎりを太陽の下で一緒に食べた。
15日には隣町までいくと電波が入るようになった。
父親と車で電波の届くところまで向かった。
電波が入るとたくさんのメールと着信が一斉に届いた。
数日ぶりに旦那へ電話。
たくさん話したいことがあったのに
「大丈夫?大丈夫・・・」その言葉しか出てこなかった。
みんなからのメールや電話で涙し、元気になった。
帰り道、幼馴染に会ってまた元気をもらえた。
16日夜になると電気がきて携帯の電波も安定するようになった。
久しぶりに灯りの下で過ごせる夜。
水道はとまったままだったけれど
灯りがあるだけで気持ちが楽になった。
そして初めて津波による被害の映像をみた。
昔遊びに行った海や町、
思い出のある建物が跡形もなく姿を変えていた。
想像以上の被害に涙と震えが止まらなかった。
テレビを見ていられずラジオを付けて早めに休んだ。
17日。雪の中、早朝から父親が南三陸町に救助活動に向かった。
知っている街並みは姿を消し、どこがどこかわからなかったと。
救助活動に向かったにも関わらず
見つかるのは変わり果てた住民の姿ばかり。
車ごと津波に流された年老いた母親と娘の遺体。
体を重ねあうように亡くなり、
せめて身元だけでもと思ったのだろう
走り書きで書いた名前と住所の袋が
洋服のポケットから見つかったと。
どれほど怖かったことだろう・・・
どんな思いで名前を書いたのだろう・・・
そう思うと胸が痛くなり、
申し訳ないような気持になった。
18日。ちょろちょろとだが水道が出るようになった。
少ないお湯で寒かったが、1週間ぶりのお風呂は気持ちがよかった。
しかし夕方には再び断水に。
気仙沼と名取の親族、幼馴染から無事であると連絡がきた。
自宅は津波の被害にあったが命は無事であると聞き
生きていることに感謝した。
しかし、いまだ大船渡の親族の安否はわからないまま。
私の実家は震度7という強い揺れでしたが
自宅は倒壊することなく津波の被害はありませんでした。
しかし思い出がたくさん残る故郷が
その故郷を支えてくれた多くの命が
美味しい海の幸が、美しい景色が
もうここ宮城にはありません。
心配、励ましのメールや電話をくださった方々、
(旦那を通じて心配して下さった方々も)
本当に本当にありがとうございます。
そして同じ被災者の方、また家族や親族に被災者となり
連絡が取れずに居ながらもご心配して下さった方々、
どうか皆様がご無事でありますよう心から祈っております。
諦めず、いつか連絡があることを待ちましょう。
震災から10日経ち、私の地域はライフラインも復旧し
自分自身も落ち着き、
今何ができるのだろうかと考えられるようになりました。
今、私にできること・・・
この体験を一人でも多くの方に知ってもらいたい、
自分自身もこの体験を忘れてはいけない。
そう思って、テレビには映らないリアルなところを感じてもらいたく
体験したことを日記に書きました。
先日テレビや色々なブログを見たところ
首都圏のスーパーやガソリンスタンドでの買いだめしている様子や
計画停電の様子が映し出されていました。
地震に対して免疫のない首都圏で今回のような地震を経験すれば
誰でも危機感は感じると思います。
でも地震は自然災害であり、
買いだめしても自分だけ助かろうなんてことは
無理だと思います。
計画停電の映像もみましたが「時間になっても消えないじゃん。」
「うわっ、マジで暗い。」っていう発言やブログが・・・。
停電とは言え、あくまでも“計画”停電。
数時間後には回復します。
電車が止まり交通の便が悪くなって
不便な思いをした方もいたと思います。
数時間かけて帰宅し大変だったとの話も聞きました。
しかし被災地ではまだ、先の見えない暗い夜が続いています。
避難所の方々は皆「大丈夫」と言っていますが
決して大丈夫なわけはありません。
命があるだけ「大丈夫」という発言をしているのだと思います。
「大丈夫」と言いながら涙する姿。
そんな我慢強いところは
東北人の良いところであり、悪いところ。
被災した地域は車がないと不便な場所ばかりです。
移動しようとしても道も橋も津波に流されてしまい動けないのです。
私はライフラインのストップということを初めて体験をし、
またその地域の交通事情を知っているだけに
テレビやブログでみたそのような心無い安易な言動に、
心が痛くなりました。
こうしている今も避難所でじっと耐えている大勢の人がいます。
被災地に自衛隊として医療スタッフとして
ライフラインの復旧を目指し街を復興させようと…
全国各地、世界各国から
自分の命をかけて最前線で活動してくれている方、
そしてその方を心配している家族が大勢います。
寒い東北で昼夜問わず活躍されている方、
感謝の気持ちでいっぱいです。
そんな方々が1日も早く心の底から笑える日が来ることを、
そしてまた元気な宮城、東北が戻ってくることを祈っています。
“当たり前”なんてどこにもありません。
生きていることは奇跡です。
今日より明日、明日より明後日・・・
被災されているすべての方々に
大切な方を亡くされた方々に
1秒でも1分でも早く
明るい温かい光が届きますように。
たくさんの愛が届きますように・・・。
※この日記は私が体験し感じたこと伝えたいことを書きました。
テレビや新聞はいつも同じ内容で
伝わらないことも多いと思います。
お一人でも多くの方に読んでいただき、
おひとりおひとりが何かしらを感じていただけたらと思います。
宮城・東北の皆さんへ。
みんなで一緒に乗り越えよう!!!!!
持ち前の明るさと我慢強さで。
ここまで落ちたらあとは這い上がるのみ!!!
這い上がるためには一人では
限度があって崩れ落ちる…
今こそ心を一つに。 」
あの地震、津波によって、多くの尊い命が奪われました。
亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
そして、多くの方が被災され未だ厳しい生活を送られています。
心の傷を抱えつつ、それでも生きていこうと、手を取り合い助け合い生活されています。
幸い、今まで自分の近い友人達は無事が確認できていますが、家が流され避難所生活、親戚が連絡取れないなどの状況があります。
今後も、危機的な場所は早く見つけ出し援助、そしてこれからも息の長い支援を、関心を、持ち続けていく必要が絶対的にあります。
阪神大震災を体験している西の人たち。東日本大震災を体験した東の人たち。
日本の皆が共感し、今心を一つにしていける、悲しみを分かち合い、いつかまた笑顔になれる日へ向かって1歩1歩歩んでいける、そう信じ、自分も出来ることを探します。





