1月にここに書いたが、

もうすぐピアノの発表会がある。

 

 (今回は小さいホールで)

 

 

娘の先生が

生徒の為に開催するのだけど、

子供が少なくなって

生徒数が減ってきたので

発表会が縮小しちゃう!

(開催できなくなくはないけど)

 

親もできたら出て~、

という事で出ることに。

(親子連弾はずっと出ていたが、

私のソロは前回から)

 

 

 

 

先生は発表会を主催するからには

もちろん最善を尽くして成功させたい。

 

なので、

先月の最終週から私もレッスンしてもらっている。

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

娘のソロ

 

娘(成人している)の曲は、

ショパンの「幻想即興曲」

 

超有名なこの曲、

絶対無理だと思ったけど、

今じゃなきゃ一生取り組まない

思ったんだって。

「じゃあ、やってみたら~」

1年くらいで少しは弾けるかな、

と思ったら、

少しずつの地道な積み重ねで

半年弱で取り敢えず弾けてきた。

若い人ってすごい!

 

勢いだけで弾いている感じはするけど、

続けていてくれるだけでもいいや…。

 

 

↑すごすぎ・・・

 

 

超有名な曲なので、ピアノ版以外。シロフォンでほぼ完璧演奏していてこちらも驚き。

 

 

 

 ー ー ー

 
 

 

親子連弾は

ラヴェル

「マ・メール・ロワ」より

1「眠れる森の美女のパヴァーヌ」

終曲の第5「妖精の園」

こちらも「眠れる森の美女」がモチーフ。

 

 

最初に楽譜見て「そんなに難しくない」

って思ったら、そうでもなかった。

(特に、曲のテンポがゆっくりなので

 間が持たない!!)

(間の2.3.4曲はもっと難しい)

 

第1曲は静かなまま。

終曲はそっと始まるけど、

最後の盛り上がりがすごい!

 

 

ここは弾いていて急にテンション上がって

ものすごーく楽しい!!!

(プリモの人はグリッサンドが続いて

ハデハデだけど指が痛い)

 

 

アルゲリッチがラン・ランと弾いている版↓(曲)

絶対こんな風には無理だけど…ニヤニヤ (見ていてちょっと恥ずかしい)

 

 

アルゲリッチとプレトニョフの第5曲目↓(音のみ)

 

 

5曲目↓こちら指がよく見れる。盛り上がりは2分半頃から (遠隔で連弾)

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

私のソロは

 
スクリャービンの小さい2曲
エチュード    Op.42-4
プレリュード Op.11-13
 
 

 ~順番を作曲年順と逆にした理由~

エチュードの最初の音が美しすぎる事、

エチュードの終わりがあっさりしてる事、

エチュードの方が難しいので

    先に弾いてしまいたい事、

プレリュードの音色が優しい事 (♭が多い)

プレリュードの終わり方がちょっと素敵な事、

          などのため。

 

 

 

スクリャービンはショパンに憧れていた。
最初の頃はショパン風が残っているけど、
少しずつスクリャービンらしさが出てきて
後半で作風がガラッと変わる。
(私は好きなのは最初から半ば過ぎまでかな)
 
 
 
スクリャービンの曲で
水面がキラキラするのに似ている所があるが、
エチュードの所で少し感じる。
 
 
 
 

エチュード Op.42-4 を聞く

 

何とリヒテルさんが弾いた録音が残っている…

 

 

ソフロニツキーさんのは音が聞き取りやすい(この方の奥さんはスクリャービンの最初の妻との長女)

下の音がすごくはっきり聞き取れる!多分録音のせいだけでなくそういう弾き方をしてるのかな。参考になる。

 

 


トリフォノフさん↓

最初の和音をアルペジオで弾いていてきれい。

この和音は片手では指が届かないので、

私は下の音を左手で取っている。

(実は最初は右手だけ使ったので、アルペジオで弾いていた。

が楽譜に忠実にと思って、左手に手伝ってもらって同時に出すことにした。)

 

 

何人かのピアニストの演奏を聞いたけど、

音がきれいだし、よく歌わせているの素敵すぎる…

 

 

 

 

 

この曲の最初の和音はとても美しい。

「この 好きなんですよ」と先生に言うと、

 

「時々音に色を感じるんですけど、

これ何色に感じますか~?」と聞かれた。

 

考えた事もなかったので、驚きつつ

何故か、画面全体にピンクっぽい

”~~~”←こんな波のような物が

目に浮かんだ感じがした。

 

と先生も

「紫っぽいようなピンクのような色の気がするんですよ」

との事だった。

 

 

 

 

 

プレリュード Op.11-13 を聞く

 

何と自作自演!スクリャービン自身の演奏が残っていた。

うわー、何か楽譜通りじゃない所が・・・

(一番最後の最後で、低音が1個付け足されている!!!)

指が届かない所はアルペジオを使っている。

 

こちらも上と同じ音源

(家族写真(3人)が映っているけど、この後何年かのうちに皆いなくなってしまったのが悲しい。)

 

 

プレトニョフ版

 

 

ザラフィアンツ

 

ソフロニツキー

(低音が割と聞きやすい)

 

 

 

 

 

 

あれー?

今日いくつか聞いてみて

ショック、

何と今更…

音を間違えて覚えていた

 

 

思い込んでいたので、気づかなかった。

本番まで10日を切っているのに、

今から直すぞ!!! 

 

今日、ブログ書いたお陰で気づいた、良かった。

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

レッスンを受ける

 

先生のレッスンは

音大受験生でもない限り厳しくない。

愛好家相手だし、

小さい生徒とできないようなおしゃべりもできるし。

 

ラフマニノフは勉強したことがあると言ってたので、

スクリャービンは弾いたことがないと思う。

 

 

因みにラフマニノフ(長身)と

スクリャービン(手が小さい)は

音楽院では同期で、もちろんライバルだった。

 

その後の人生で国を出たか、

国に戻ったかで、随分違う人生を歩んだし、

作風もラフマニノフは

最後のロマン派というほど変えなかったが、

スクリャービンはどんどん

現代風に変えていき、音に色まで加えた。

 

 

 

 

でもさすが、ピアノの先生、

楽譜を見ながら、エチュードで

リズムが間違えている所など、

気づいて教えてくれた。

 

自分では、よく分からない所も

教えてもらってすっきりしたり。

 

 

とにかく、

最初の1回のレッスンを受けたら

急に少しレベルが上がったか、

先生に会っただけで力が移ったというか、

翌日から少し上手くなった気がした。

オーラかな?

レッスンを受けると、

1人で弾いているだけでは

やはりちょっと違う。

 

 

それと、

「発表会」があると、向き合い方が違う。

曲を完成に近づけなくてはいけないから

練習するし、練習の仕方も工夫する。

 

 

 

 

だから、今後も、

いつまで自分もできるか分からないけど

先生が開催してくれている間は出る。

先生は10歳以上年上だけど

長く元気でいてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔、1993年から約2年

ロシアに滞在していた時、

かなり長時間を旅に費やした。

ロシア国内だけでなく

近隣の数か国も歩き回った。

 

 

  ー  ー  ー

 

 

その前の

1990年、仕事を辞めて

シベリア鉄道に2度目に乗って

ヨーロッパへ行った時

ポーランドも通った。

ショパンが生まれた所、

ショパンコンクールが

行われる国だって事はもちろん知っていた。

 

 

 

まだ旅慣れていなかった私は

ソ連(まだソ連があった)を抜けた
最初の国ポーランドで
直ぐにアホをやらかしてしまった。
 
ポーランド語はもちろん、
英語も少し(英会話教室行ってたけど)、
ロシア語も少ししか話せない。
 

ひょんなことで(数人の中継で)知り合った

インテリのポーランド家族に助けられ

数日泊めさせてもらった。

(ものすごく幸運と言うしかない)

 

 

夫婦と小学生の息子は英語を流ちょうに話した。

 

お母さんは

ワルシャワ大学のロシア語の先生で、

イタリア語も得意と後で知った。

(帰国後文通を始めたので分かった)

 

 

 

ワルシャワの街中に

ショパンの博物館があったのを見て

ワルシャワで生まれたのかを尋ねると、

ジェラゾワヴォラという名の町を教えてくれた。


お父さんは

「じゃあ今から行こう」と

車にお母さんと私を乗せ出発した。

 

お母さんは

「日本人はショパンが好きね」と言ったニコニコ

 

 

ショパンの生家は

とても素敵な緑の美しい田舎にあった。

質素なたたずまいの

家とその中をゆっくり見学した。

 

 

帰り道に広い庭のある

昔の貴族の邸宅のような公園へ寄った。

そこも緑が美しく森があり

小宮殿のような中で休むことができた。

壁際にアップライトピアノが置いてあり、

子供が何か弾いて遊んでいた。

 

 

そこがどこだったか思い出せない、

ネットが使えるようになってから

地図を見て何度も探したけど分からない。

 

 

お父さんの車はトヨタだった。

当時車は少なかったし

地下と3階もある広い庭の一戸建てだから

多分お金持ちと思ったら、建築家だった。

 

 

甘い実のなっている木が何本かあって、

鶏も歩き回っていた。

 

 
  ー  ー  ー
  ー  ー  ー
 
3年後、
ロシア語が随分話せるようになってから
春にモスクワへ行き
ロシア語の授業を受けつつ旅をしていて、
秋にやっとワルシャワに行った。
 
 
 
着いてから、知り合いの家族に
電話をするとツーツー音が鳴り続けた。
 
取り敢えず泊まったユースホステルでは
同じ部屋に、ウクライナからの出張で
1人で長期滞在しているという女性が
私と話しながら「自分の言葉で話せてうれしいわー、
ここはポーランド語ばっかりだから寂しくて。」
と涙を浮かべていた。
子供も家に置いてきていると言っていた。
 
 
街へ散歩に出て戻ると、
ロビーで彼女がロシア語で青年と話していた。
ポーランドの北東の出身で、
東のポーランド人は
ロシア語が話せる人が多いとの事だ。
(ポーランド風の訛りはちゃんと聞こえる)
 
 
  ー  ー  ー
 
一緒にしゃべった中で、
「ポーランドの歌うたって」と言うと、
おどけながら歌ったのが、
「森へ行きましょう、娘さん」だった。
 
驚いた、小学生の音楽の教科書にあり、
当時の教科書の世代はみんな知っている歌。
(コマーシャルでも使われていた)
これポーランドの歌だったのね!
 
  ー  ー  ー
 
 
その後、
彼に知り合いの家族の事と
そこへ行きたい旨を話した。
中心地から離れているので
1人で見つけることは難しかったのだ。
住所から探し出してくれた。
 
 
  ー  ー  ー
 
 
手紙に私は、「そのうち
ワルシャワに行く」と書いていたが
電話は繋がらなかったせいで、
突然の訪問になったが喜んでくれた。
 
悲しい事に
お母さんは、ガンに罹っていた。
モスクワに出張に行って
帰ってから発症したらしい。
多分毒を盛られたと言っていた。
 
隣り合う2つの国は大抵 
関係が微妙な事が多い。
(日本だって色々あるが
島国だから随分マシだと思う)
 
 
でもなぜ、個人に対して?
しかもロシア語専門で、
ロシアが好きな人に対して
ロシア人がそうする理由はないのに、
とそう思っていた。
(もしかすると、別の第3の、
例えば陥れようとする勢力か何かが
あるのかな、という考えも浮かんだ)
これは今でもわからない。
でも考えると辛い…
 
 
  ー  ー  ー
 
 
そんな中で、私はそこで
何日か過ごさせてもらった。
 
 
「森へ行きましょう、娘さん」
の歌は、日本でも有名なんだと
お母さんに話した。で
ポーランド語の歌詞を書いてもらった。
 
本当の大学の先生らしく、
意味をロシア語で丁寧に説明しながら。
 
 
そのあと1人で、あの時あの家で、
歌詞を何度も繰り返してさらった。
 
今でも1番は全部覚えている。
 
2番か3番まであって
後半はあやふやだけど。
 
 
  ー  ー  ー
 
 
旅では、訪問の前後に
他の国を通って色々な町を見ながら、
ポーランド国内も回った。
 
クリスマスに招待されたので、
またモスクワから行ったりした。
 
年明け後に
チェコとスロヴァキアにも行ってから
またワルシャワに戻って泊めてもらった。
 
記憶に残るあの家族の家は何度も訪ねた。
 
 
今までの人生で、日本以外、つまり
外国ではロシアの次に長く滞在したのが
ポーランドだった。
 
 
  ー  ー  ー
 
モスクワに帰って
その後の計画を立てた。
春か夏までモスクワにいて、
それからポーランドに長期滞在して、
同じスラブ語であり、
ロシア語との共通点もある
ポーランド語を習ってみようと。
その後、
チェコにも行って、
同じくスラブ語なのでそこでも習って
比較してみたい…と思ったのだ。
 
 
 
でもその春、
今の夫と知り合う事となり、
それらの計画は無くなった。
 
 
 
  ー  ー  ー
 
 
でもその後もう一度
ワルシャワのお母さんには
会いたかったので、一緒に行った。
 
ワルシャワに着いて、体調を少々崩し
2,3日経って回復してから
家族の家に電話を入れた。
すると、同居のお婆さん(お父さんの母)が
受話器を取った。
彼女はロシア語は話せないようだったけど
今病院にいる、と言ったのは分かった。
教えてくれた病院の名と通りの名だけはメモできた。
(頑張ってロシア語を混ぜてくれたのかも)
 
 
見慣れた地図で地名を探し病院へ行く…。
誰でも入れるわけでないらしく
守衛に話して名前を伝えて
敷地に入れてもらう。
連絡してもらい、
お父さんが門まで迎えに来てくれる。
 
 
病室に入ると
4人部屋だった。
 
 
部屋をくるりと見渡し
それぞれのベッドにいる顔を見て探す。
4人の顔を見比べ、1人目に戻った時
潤んだ目で私を見るお母さんと目が合った。
何と最初に見た人がお母さんだったのだ。
やせ細って顔が分からなかった。
ショックだった。
 
お母さんの母がそばに付き添っていた。
彼女にも前回会ったことがあり、
顔見知りになっていた。
自分の娘の病状に絶望して
すっかりやつれていた。
 
まっすぐ見ていられなかった。
悲しい。
 
 
以前、お母さんは
私が見た目より年上で驚き、
もう適齢期を過ぎそうなのを知って
心配していてくれていた。
一緒に来ていた現夫が、
「結婚するんです」と言ってくれた。
 
その時、「安心したわ」と
お母さんの目がキラキラして
喜んでくれたのが嬉しかった。
変わらず大きくてきれいな
茶色の目をしていた。
 
 
長時間いると疲れさせてしまうし、
間も持たなくなってきたし
短時間で最後のお別れをした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本語の歌詞は娘も若者も複数だけど、
ポーランド語ではどちらも単数...
ちょっと意味深照れ ...かな
 
 
ロシアでも
歌自体は知られているらしく
夫がこの歌を聞いた時、
照れてニヤリとしていた。
 
(ずっと前の話、今は忘れているかな)
 
 
 

 

 

 

 

 

↑アメブロ内で

ポーランドの方による

ショパンの生家博物館の紹介

 

 

 

 

 

 

映画「ソローキンの見た桜」(2019年) を

ネットで見れるかな、と探してみた。

 (前から見てみたいと思っていた)

 

 

映画『ソローキンの見た桜』公式サイト原題“Вплену у сакуры”「桜にとらわれて」 

 

 

予告はこのサイトから見れる↓

 

 

Wikiでの解説↓

|(同ロシア語版)

日露戦争時の愛媛県松山市を舞台に、

ロシア兵捕虜とその看護にあたっていた日本人看護婦の許されざる恋を描く 。

 

時代背景

日露戦争1904年(明治37年)2月1905年9月

大日本帝国日本)とロシア帝国との間で行われた戦争。

 

 

 

 

ここで 映画 を見れる 

日本語の字幕しかない。

(日本人は分かるけど、

日本語と英語が分からないロシア人は

半分しか分からないと思う)

 

画質は良くないが、他は見つからないので

”V Kontakte” で見た。

(フ・コンタクテはロシア版のフェイスブック的な)

 

  ~ ~ ~

 

悲恋の話。

 

ロシア人将校はイケメンすぎなかった。

でも帝政時代のインテリ(貴族かも)で、英語が話せた。

好きな女性への ” 押し ” が 強い。(男らしくてOK)

女優さんは可愛くて上手(だと思う)。

 

 

最初

ただのメロドラマのような感じで始まったので、

あまり期待せず前半は過ぎた。

 

後半になるとだんだん乗ってきて、

最後は感情移入もしてしまい涙が…。

ソローキンさんは帰国して

間もなく亡くなった、と後で知る。

彼女の方はとりあえずその後

不自由なく生きられたので安心した。

 

 

最後の15分位かな...

チャイコフスキーやラフマニノフ等の

弦楽器の曲が効果的に流れ続けて

感情を揺さぶられるのにぴったりの選曲だった。

すごくメジャーではなくも聞き覚えがあったし

こういう曲好き!なので、キュンキュンした。

 

 

 

 

関連の動画がまとめてある↓(資料的な)

 

 

 

 

 

 

 

 

  ~ ~ ~

 

何故この作品が見てみたくなったかというと、

昨日YouTube のおすすめで

「ワルシャワの秋」というドラマが出てきて

思わず見てしまったから。

 

「ソローキンの見た桜」と同時代

明治時代の看護婦さんがヒロインなので

思い出した。

 

 

 

この話はこれで良かったし

看護婦さん役の 竹内結子さんがきれいで

その後の悲劇を思うと悲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ~ ~ ~

 

 

 ↓ 昔話

 

あの時代の看護婦さんの制服はとても素敵。

 

生きていれば101歳の母の話では、

(私の記憶に残っていない)祖母が

看護婦だった時があり、

当時の制服を着た写真があったはず、

とのことだったが、

所有者の叔母は母より前に亡くなり、

多分処分されてしまった。

 

若い時は叔母とは仲良くしていたが、

複数の幼児を抱えていた私に声はかからなかったし

葬儀にも参加しなかった。

 

その時母は要介護で父は精神的に参っていた。

子供は置いて行けないし

連れてもいけないし、余力もなかった。

 

 

 

 

 

 

祖母が写っていたのはこんな写真↓↓だったかな、と想像

(下の写真はイメージでネットから借りました)

 

いつの時代も医療従事者の奮闘努力がありました。二度の戦争を戦った明治の日本でも……。 さん