私は、母の遅い子(40代)だったので
戦争の話は母や母の姉から聞いたことがある。
小学時代、中学時代で夏休みに伯母の家にいると、
「早いね、もう戦後30年経つのね・・・」
「早いね、もう戦後35年・・・」
「早いね、もう戦後40年・・・」
というのを聞いてきた。
同年代の他の人達よりは
戦争の話に近かったかもしれない。
残念ながら、
成長がゆっくりだった小学生(私)に
興味はあまりなく(覚えている事は少ない)…。
戦争の時の話
覚えているのは、
伯母が遠くに大きな白い花を見つけて
「近づいたら、人間のあばら骨が
花のように広がっていたのよ」と
顔を引きつらせながら話していた話。
戦時中の母の話
母は台湾総督府に勤めていた。
そこでは軍が砂糖をため込んでいた。
夏はその暑さで溶けて袋から流れ出すことがあった。
欲張らずに配ればいいのにね、って母は言っていた。
母はタイピスト(もちろん和文)として働いていた。
「今日は行くな」と祖父に言われた日、
(仕事が溜まっているからと行こうとしたら殴られた)
その日、総督府が爆撃され、友達が大勢亡くなった事。
次の日、遺体の特定の為、母が呼ばれた事。
遺体は悲惨な状態で、母には見せられず、
服の切れ端を見せられて、
「これは誰誰の服の模様」と判断したそうだ。
と、これくらいの話しか私は覚えていない。
(総督府の話は以前にも書いた)
母の両親
母達一家は両親が九州の出身だ。
祖父が博多のお寺の出身だったことは聞いている。
長男だったのにお寺を継がずに家を出てしまったそうだ。
祖父の先祖がお坊さんになったのは
侍だった頃に人を切ったからだと伯母は言っていた。
祖母は長崎の出身だ。
祖母の母は1人で日本を飛び出す元気な人だったそう。
祖母は軍に看護婦として勤めていた。
祖母の看護婦姿の写真を独身の妹が持っていたが
没後に捨てられてしまったと母が悔しがっていた。
多分祖父母は現中国で知り合い(伯母は厦門(アモイ)生まれ)、
その後、台湾で暮らしていた。(母は台湾生まれ)
最先端を行っていた伯母
伯母は戦前か、始まってすぐの頃か、
当時最先端の”美容”を東京で
フランス人の先生に学んでから
卒業後に台湾に戻っていた。
美容師は当時から儲かったらしいし、
女性達から先生、先生ともてはやされた。
独身でパートナー女性と
同居だったので子育てもしていない。
当時では最先端だっただろう。
そんなんで、
伯母は偉そうにしている感じがする時があった。
台湾にいた時の沖縄人を見分け方を
話していたのを思い出した。
彼女たちは暑くても手袋をしていた。
かつては沖縄女性は手に入れ墨をしていて
それを隠すためだと言っていた。
まあ伯母の話なので、
どこまで正確か分からない。
それに
伯母が無意識に他人を見下している感じがした。
伯母は平等を謳う宗教を信じていたはずなのに、
変だと気付かないかなと思いはしたが、
伯母が好きだったのでスルーしていた。
母の家族
母達の育った家族がどんなだったか
よくわからないのだが、
ちょっと「いい家庭」か「小金持ち」
だったのではないかと思う。
「全然お金持ちじゃなかったよ」と言っていたが…。
子守りや洗濯ババは台湾人が来ていた。
母は子守りのお姉ちゃんと仲良くして、
小さい頃その子の家にお泊りに行ったりしたそう。
もっと小さい頃は下男の肩車で
「あっち行って、こっち行って」と
乗り回し?ていたらしい。
蓄音機で音楽を聴いていた話、
お雛様セットで遊んだ話とか。
祖母は機嫌が悪くなると
子供たちを連れて写真館へ行って
写真を撮っていたらしい。
祖父は革でバッグを作ったり、
時々競馬でお金を掛けたりしていた。
祖父は、お寺出身のせいか、
困っている人は家へ連れて来て
面倒を見てやったりで、
いつも家の中に人が多かったそうだ。
話の中では
戦争であまり苦しんでいた感じは受けなかった。
終戦
終戦前、母の兄は台湾から出征したが負傷したため帰ってきた。
弟は3人いるが、上の弟が出征したか聞いたかどうか覚えていない。
戦後、母は20代前半。
母達は少しの荷物と1000円(?私の記憶があいまいで不確か)だけ持って
後はぜーーーんぶ台湾に置いて (捨てて)
内地に引き揚げた。
着物も沢山あったけど2,3枚だけしか持ってこれなかった。
写真は剥がして持てるだけ持ってきた。
家を離れる時、台湾人達が待っていて
なだれ込むように家に入って行ったのを見たそうだ。
その時物を全部捨てたから、今後もできる、と言っていた。
母の従兄弟たちに戦死者は複数いるが、
母の兄弟8人は欠けることはなくそれぞれの寿命を全うした。
ー ー ー ー ー
一方、
父の戦前 戦中 戦後は
父は田舎生まれで、戦時中はまだ小学生だった。
学校では勉強する代わりに
農作業をさせられていた。
戦後、14歳で家を出た。
戦前、祖父が生きている時、農作業の他、
荷馬車で配送の仕事もやっていたため、
家に馬もいたし、
牛を育てる仕事(大きくなると売る)もしていたらしい。
祖父は父が2歳頃に不慮の事故で亡くなると、馬も牛も飼えなくなった。
戦時中、父の長兄は召集されて大陸へ渡った。
背が低かったために兵士でなく、
軍馬の世話係をやっていた。
その後、伯父の隊は
やられたのか何なのかでバラバラになって、
現地解散してしまった。
で、それぞれ、帰宅したそうだ。
(そんな事あるんだ!!)
また召集が来たら行く予定で自宅待機していたが、
来ないうちに終戦になった。
父の兄弟も全員無事だった。
が父の伯父の家は
出兵した息子達が全滅したそうだ。
どれだけ悲しんだ事だろう…。
父の話では、
戦争前だが、別の叔父一家は
チリだったかアルゼンチンだったかへ渡ったのだそう。
スペイン語を話すかつての親戚が
きっと向こうで暮らしているのだろうな…。