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乳がんを「無治療」で闘い、45歳でこの世を去った姉の闘病記を、そばでサポートしてきた立場でら見えた事、感じた事、分かった事など、少しでも皆様のお役に立てたらという思いで書いております。
前回は姉の終末期の②をお伝えしました。
読んでない方は是非そちらの方から読んで頂ければより内容がつかめるかなぁと思います![]()
今日のお話は、姉の本当に最期の最後のおはなしです。
土曜日の夜母から、姉が「自分から救急車を呼んで欲しい」と言ってる、、、と電話がありました。
母はいつも私を頼っていましたので、この時は余計にいつもより不安だったでしょう。
夜の10時半頃でした。
私はすぐに119番しました。
そしてすぐに実家に向かいました。
私が実家に着いたとき、すでに救急車が到着しており、姉の口には酸素吸入器が付けられていました。
私が「大丈夫⁇」と話しかけても一点に宙を見つめ、何も返答は無し。
体をさすると、手を払われました。
なんか切ない気持ちと、姉の気持ちを察しようとする気持ちと、私は複雑でした。
でも救急隊員の質問にはかろうじて応えていた姉。そこは最大限の力を出して頑張っていたのでしょう。
なので意識はありました。
でも家族の呼びかけには一切応えません。
救急車の中でも私が体に手を当てるとまた手を払われました。
姉の性格から、分からないでもない行為です。
きっと、本当に必死に最期を闘っていて、
簡単に手をかざすらそんな私たちの「にわか」な同情なんかいらない、私に構わないで、、、そっとしておいて、、、
という感情だったと思います。
最期まで変わっていた姉でした。
病院に着いたら色々検査をさせられていたようで、私たちもかなり待たされました。
旦那さんはまだ姉が最期になるとは思っていなかったようで、待っている間、長い目で見たこの先の話しをし始めて、私は正直に
「もう長くはないと思う」と言いました。
旦那さんは驚いた様子でした。
男性は仕事をしているせいもあり、なかなかうといものです。
旦那さんは仕事で日曜の週一回の休みしかありませんでしたし、平日も夜中になるのが当たり前の人だったので、日々の姉の様子に気付くのは厳しかったと思います。
日曜日も姉はひとりになりたかったので、旦那さんに娘を連れて旦那さんの実家に行ってもらうのが常でした。
姉はあまり自分の弱い所を見せたくなかったのか、病気に関する事にはあまり頼りしていなかったからか、、、
でもある部分ではとても旦那さんを頼っていて、旦那さんにはワガママも出してました。
姉は自然のある田舎が大好きだったので、最期の方も病院の帰りなど、旦那さんに「海が見たい」と言って銚子の方に連れて行ってもらったり、死ぬ5日程前も「山が見たい」と言って青梅の方まで連れて行ってもらったりしていました。
姉にとって担当が違っていたのですね、闘病に関する悩みや相談相手はいつも私でした。
病院に一緒に行くのも、お医者さんに掛け合うのもいつも私でした。旦那さんが忙しすぎたのと、妹の私とは考え方が似ていたので、姉にとって私は良き理解者だったのです。
変わった考え方を持った姉でしたので、なかなかすぐに理解してくれる人は身内でも私以外いませんでした。
でも旦那さんはそんな姉の言う事を全て受け入れて、姉の思うままにさせてくれました。
無理矢理考え方を変えさせようなどとは微塵も思わない人でした。
話がそれましたが、、、
そして、待合室でしばらく待っていると当直医からお話があるとの事で私たちは中に入って行きました。
私と旦那さん2人で聞きました。
レントゲンを撮ったらしく、その結果、肺は片方がほぼ真白で、肺がんが既に片方の肺を埋め尽くしていたのです。
久しぶりのガンの検査結果でしたので、
私も肺がまさかそんなに侵されていたとはビックリでした。
それじゃあ呼吸も苦しいわけです。
一年くらい前に、咳がひどい時があり、私が、
「肺がんが進行してるか、胸水が溜まってて咳がひどくなってるんじゃない⁇」と言ったところ、
「そうやってネガティブな事言わないで‼︎ 悪い方にいってる言い方はして欲しくない」
と怒られた事があり、それからはあまりネガティブな事を言うのは避けていました。
検査を嫌がったのも、その結果に一喜一憂したくなかったからで、悪い結果を言われたら引きずってしまう自分がいる事を分かっていたのでしょう。
確かに、マイナスな将来を想像して不安と恐怖に怯えながら生きるより、明るい未来を想像した方が絶対いいに決まってますよね。
でも今のほとんどのお医者様は「これをしないとああなっちゃうよ」とか、
「このままじゃダメだよ」とか、常に批判的な事しか言いません。
姉のガン発覚初期の頃もそうでした。
手術や抗がん剤を渋る姉に、
「このままだと10年生きられないよ。娘さんの成人式見られないよ」と言いました。
緩和ケアの先生も「このままだといつ意識がなくなるか分からないよ」とか、常に悪くなった時の事しか言いませんでした。
脅して考え方を変えさせようとするのです。
でもそれは違います。
脅して、患者を恐怖に陥れて、不安にさせて、自分の治療方針に従わせるのなんて、後々どれだけ患者を苦しめることか!
人は意識一つで元気にもなるし、病気が予想以上に悪化することもあるのです。
その点、姉が通っていた波動医学の先生は全く逆です。悪い事はいいません。嘘も言いません。
なぜかいつも希望と明るさと元気をもらって帰りました。私も姉もあの先生のお話を聞くだけで明るい未来を想像できました。それが結果として思うように現実にならなかったとしても、姉の残された時間の中で、恐怖で希望もない時間を過ごすより、うーんと良い思いをさせてもらい、最期まで諦めない生き方をさせてもらいました。
その考えはスピリチュアルの基本でもあり、生きる上でとても重要な事。
それは辛い現実を生きている末期のがん患者だって同じ。むしろ大切。
なぜなら希望を失ったら全て終わりだから…
なかなかそう思えない人が多いと思いますが、諦めたら終わりです。でもそれは執着ではないです。執着は逆に良くないです。
姉のように検査を拒み、現実を直視しないのも、側(はた)から見たら少々もどかしい時もありますが、今思えばそれくらいが良いのかもしれません。
波動医学の先生も言っていましたが、ガンも日々状態が変わり、増える続ける時もあれば減る時期もあるのに、数ヶ月に一度の検査はその日のその時の状態だけを切り取った数値で見ている、と。
だからその一瞬の数値では決められないと。
話を戻しますが、結局、呼吸が苦しかったのも咳が出ていたのも肺が侵されていたからなのでした。胸水も溜まっていたようです。
全てはレントゲンが物語っていました。
胸骨にできた骨のガンも、乳がんも、目に見えるガンでした。
でも肺は全く様子が見えません。
見えない所だけに、憶測で悪い方向に言う事は一度怒られて以来避けていたので、尚更不覚でした。
その時の当直医は、こんな状態になるまでなんで何もしないんだ?と不思議がっていました。
経緯は説明しましたが、さっぱり理解できなかったようで、何度も同じ事を言っていました。
「まだ若いのに」とか、「緩和ケアはどうしてやめたのか」とか、独り言のように繰り返していました。
分からない人には分からないでしょう。
きっとこんな変わった人はあまりいないので不思議なんでしょう。
そして、コロナ禍でしたが、幸いそこの病院ではコロナ患者も出ていなく、病床も空いていましたので、入院する事になりました。
そして、看護師さんが家族を姉の所に呼ぼうとしたら、姉はなぜか、やはりか、、、「家族は来なくていい」「来ないで欲しい」と看護師さんに伝えていたようで、看護師さんから、とても不思議がられ、何か問題でもあったのか?と聞きたいようでした。というか、遠回しに聞いてきました。
姉と私たち家族には別に問題はありませんでした。姉はなんで最期、家族を拒んだのか、私も未だにはっきり理由は分かりませんが、分からないでもない気もします。
それは後に書きますね。
そして私と旦那さんで手続きをし、説明を聞かされ、既に夜中を回っていましたが、帰り際、先程とは違う看護師さんが、私たちが帰る前に、
「病室に行って会っていかれますか?」
と聞いてきましたが、
「先程、本人が家族には会いたくないと言っていたのでどうかなぁ、、、」
と言ったら、
「じゃあ聞いてきましょうか?」
と言って、姉の所に確認しに行ってくれました。
看護師さんがすぐに戻ってきて、伝えてくれたのは「やっぱり嫌だそうです」との事。
そして、私達家族はその日病院を後にしました。
長くなりました![]()
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次回はこの続き、「お別れ」についてです。