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乳がんを「無治療」で闘い続け、45歳でこの世を去った姉の闘病記を書いてます。


そばでサポートしてきて気づいた事、見えた事、感じた事などを綴っております。



さて、今回は前回の続きで、いよいよ発覚から2年半近く闘い続けてきた姉の、本当の終末期のお話です。




いよいよ春になり、ようやく寒さとのお別れの時期、姉は父親と喧嘩して実家を出ました。



旦那さんと娘のいる我が家に戻ったのですが、食事の面倒を見るために、私と母が日替わり交代で姉の家にお昼頃ご飯を作りに行き、家族の夕飯と、姉がその時食べたいものを作ったりしました。


その頃よく食べていたのは、


●乃がみの食パン

●ナスの揚げ焼に生姜おろしがけ


などを普通の人より多く食べていました。



とにかく口にできるものとできないものとがハッキリとしていて、終末期に近づくほどそれはより激しくなりました。


それでも好きなものだけ食べていたらいけない、という気持ちもあり、


嫌だけど生命維持のために出来るだけ口にする


という日々が続きました。


そして、タンパク質を意識して取ることが結構大変で、肉は元々食べなかったので、魚、大豆系、海藻になるのですが、海藻はダメ、魚も種類が限定的で、大変でした。


そんな中でも私がご飯を作りながら話しをするのが恒例で、焼いたばかりのナスを美味しい美味しいといくつも食べていたのを思い出します。


たまにふざけて、「私が死んだら貞子みたな姿であんたの枕元に立つからよろしく」とか、冗談を言って笑いあってました。


娘の事も気にかけており、私が

「大丈夫! 成人式もお嫁行く時も私がちゃんと面倒見るから」

と言ったら、本当に心から安心した様子で「良かったー」と言っていたのがとても印象的でした。


私には息子が2人います。我が子と歳も近いし、いとこ同士仲良しだし、姉がこんな状態だし、ある意味、姪っ子は娘の様に思えます。

姉が闘病中だったので、前の年の姪っ子の中学の入学式にも私が行きました。


姉は自分の子供の面倒まで、妹の私に託すのは申し訳ないと思っていたようです。




その頃の症状としては、終末期に見られる【悪液質】がかなりひどい状態でした。


※悪液質がわからない方はググって下さいウインク


私は半年以上前からこの【悪液質】を気にかけており、姉にはその事を説明し、なるべくタンパク質をとり、痩せない様に言っていましたが、姉はあまりピンと来てなく、脅すように先の事を言うのも可哀想だったので、しつこくは言いませんでした、、、



あと、歩くだけで呼吸が苦しいという状態が段々とひどくなってきていて、2、3歩歩くだけでも立ち止まって呼吸を整えなければならなく、普通に椅子に座っているのも辛く、いつもテーブルにうつ伏せていました。


ベッドで寝てばかりいたら寝たきりになってしまう、という意識からか日中はあまり横になる事がなかったです。横になると咳がひどくなるというのもあり、寝る体勢もなかなか一筋縄ではいかないので、横にならなかったというのもあります。


咳もけっこう出ていました。




そして6月終わり頃だっでしょうか、、、


いつもの様に食事を作りに昼頃訪れると、なんだか調子悪そうに机にうつ伏せていて、食べるのもやっと、私と話すのもやっと、といった感じで、そして2日目も、3日目も、、、

とにかくその3日間でガクっ、ガクっと悪くなっているのが分かりました。


ほとんど話さず、話しかけても「ちょっと悪いからごめん」と言ってほぼ会話もしんどいという感じで、私はすぐに帰りました。


4日目、母親が当番の日に姉の家を訪れると、来るなり母親に、

「ちょっと辛いから、そっちに行ってもいい?」

と、実家で生活したいとお願いしてきたのです。


今まではなんとかトイレもお風呂も食べるのも自分で頑張ってやっていましたが、いよいよそれすらもあやしい状況になり、自分でも不安を感じだのだと思います。

常に誰かがらそばにいる安心感と、体を動かすのが困難になってきた分、言ったらすぐに動いてくれる誰かが必要になったのです。


骨のガンも目に見えて大きくなっており、胸骨のちょうどみぞおちのちょい上辺りの中心に、ピンポン球より大きな状態になっておりました。キレイな球ではなく、ちょっとゴツゴツボコボコした様な形で、アザっぽくなっているところもありました。


姉は、骨の腫瘍が大きくなった為にそれが気管に影響して咳が出たり呼吸が苦しくなるんだ、と言って自分で勝手に信じ込んでおり、


この後に及んで、この骨にできた腫瘍を手術したい


と言い出しました。


ビックリです。


歩くのもやっとな人間が手術なんて出来るわけがありません。乳がんの検査の時だって血液が足りなくて2ヶ月も準備期間があったのに、しかも骨を取り巻く様にくっついている骨のガンを取るなんて、無理に決まってます。医療に詳しくない私だって分かります。

骨が折れるでしょう、きっと。

だってあんなに痩せ細っているのだから…


きっと、藁をもすがる思いで、冷静な判断もできていなかったのでしょう。


こちらも冷静に諭しましたが、どうしても手術したいと言い張るので、以前手術してもらった先生に電話する事にしました。

絶対に断られるのは分かっていましたが、そうしないと姉は納得しないだろうと思ったからです。


当たり前ですが、見事に断られました。


それで諦めるかと思いきや、今度は波動医学の先生に診てもらい見解を聞きたい、と言いました。


波動医学の病院は隣の県で、車で1時間ほど。

歩くのもやっとなのに、とても今の状況では外出なんて無理に決まってました。


それでも納得がいかない姉でしたので、そこにも電話をしました。

先生が「本人の写真と腫瘍の部分の写真を持ってきてくれたら診ますので」といって下さり、いつも私と2人で行っていた病院ですが、初めて私ひとりで行きました。


先生に相談するも、やはり当たり前、手術は無理と。それと、腫瘍のせいで呼吸が苦しいのではないと、はっきり言われました。貧血状態もあるので、やはり食べられるだけ食べて、、、

と言われました。


帰ってから姉にそれを伝え、腫瘍のせいで呼吸が苦しいのではないとの事も話したら、やっと納得してくれました。

食べるもの食べたら貧血状態も治るから少し楽になれるよ、と伝えたら希望を持ち始め、その日から本当に頑張って食べよう、と一生懸命なのが分かりました。ところが、なかなか体は思うように食べ物を受け付けてはくれません。


でも「食べなきゃ」と必死さが伝わり、


【生きたい、まだ生きられる】


という執念みたいなものが伝わってきました。


私は複雑でした。なぜなら何となくもうあと1ヶ月もないことを感じていたからです。


体が食べ物を受け付けない状態なのに、私が言った事で変に希望を持たせてしまい、辛い思いをさせてしまってるのでは、、、と切なくなりました。



そして実家に戻って来てすぐくらいから、トイレに間に合わなくなりそうだからと、介護用の簡易トイレとオムツパッドを母親に頼み買ってきてもらっていました。

父親にはそれを知られたくなかったようで、母に内緒しておいて、と口止めしていたようです。


オムツパッドも全部自分で付け、取り替えるのも全部自分でやり、ゴミだけ母に渡したそうです。



寝ている部屋に簡易トイレを置いたのですが、ズボンを下ろす事ができず、簡易トイレの前でうずくまっている事に母が気づき、その時初めて母にお願いしたそうです。


実家に戻ってきて約2週間後くらいに亡くなる事になるのですが、トイレの前でうずくまっていたのは亡くなる2日、3日前の事で、救急車で運ばれる前日くらいか当日の出来事だったそうです。


その実家での最期の日は、頭を上げるのも辛い状態なのに、食卓に座り、うつ伏せたまま、母親に口に運んでもらって何とか食べていたようです。


なので、母が介護らしき事をしたのはほとんどなく、この口に運んであげたのが1回、簡易トイレにした大便を流したのが1回、ズボンを下ろしてあげたのが1回、それだけだったそうです。


自分の事は最期まで絶対に自分でやろうとした姉。


絶対に迷惑はかけない、と強い意志が感じられました。


ある意味、意地でした。


頑固な性格でしたから、尚更です。

でもそれは優しさでもありました。

介護させたら可哀想だから、という思いやりです。


そのお陰で肉体的な母の負担は本当に少なかったので、母も本当にそれは有り難かったと言っていました。





救急車で運ばれた時の様子や、病院でのその最期の時の事はまた次回お話しますね。