何を食べるかは、人生の哲学 


 photo 山梨県甲州市『一休庵』

武田信玄の菩提寺である恵林寺の境内にある「一休庵」は、本格的な精進料理と山梨の郷土料理を同時に味わえる、風情豊かなお食事処。店内には能舞台を模した席があり、お寺の厳かな雰囲気の中で食事ができます



  外国人にヴィーガンが多い理由

外国人に、ヴィーガンやベジタリアンが多いのはなぜでしょう。

 海外では、スーパーでもレストランでも菜食の選択肢があるのは当たり前。本当にうらやましいと思いますおねがい

健康志向や環境配慮、トレンドという側面もあると思います。でも、それだけではない気がしていて。

信仰心、あるいは個人の哲学——これがひとつの大きな理由ではないかと。

キリスト教も、ヒンドゥー教も、仏教も。宗教は違っても、その核心にあるものは同じではないかと。愛と、命へのリスペクト。自分がされたくないことを、他の命にもしない。

哲学を持つ人は、それを日々の食卓にも及ぼしているスプーンフォーク。自分の意思で、自分の人生を生きている感じがして——とてもステキだなぁと思うのですおねがい


  日本にあったもの

では、日本はというと。

日本には、かつて世界でも稀なほど豊かな宗教的感性があったと思います。

神道の八百萬の神——山にも、川にも、木にも、石にも、命と魂が宿る。あらゆるものへの畏敬と感謝。
そして仏教の不殺生——生きとし生けるものへの慈悲。

さらにこの二つが融合した神仏習合という、世界でも珍しい宗教スタイル。

対立ではなく、融合。

排除ではなく、包摂。

これは、日本が世界に誇れる美しい精神のかたちだと思いますキラキラ

そしてその核心にあったのは、他へのリスペクトではないかと。

日本人はもともと、命と共に生きることをとてもよく知っていたのだと思うのです。 


  いつの間にかすり替わり…

 今の日本はどうでしょうか。

あるとき、現役のお坊さんと菜食について話していたときに、仏教も不殺生が基本ですよね?と訊いたことがあります。
その返答は——「お釈迦様は、肉や魚を食べてはいけないとは言っていない」というものでしたガーン

その言葉を聞いて、私はとても悲しくなりました。仏教のプロからそんな言葉が出るなんて…悲しい


実際、今の日本の仏教のほとんどの宗派では、肉食や魚食は許容されていますびっくりハッ。明治時代に政府が僧侶の肉食・妻帯を公式に認めたことが、そのきっかけのようです。


でも、私は、お釈迦様が、命を奪って食べることを肯定していたはずはないと思うのです。きっとどこかで、何かがすり替わってしまったのではないかともやもや

たぶんその僧侶の答えは、托鉢の中にあった、「施されたものを粗末にしない」という考え方なのだと思います。ただそれは、本来はお釈迦様の教えの本筋ではないような気がして…。

食べ物を粗末にしてはいけない。それはすべての命へのリスペクトから来るものです。人間は何かを食べなければ生きていけない。植物も含めた命への畏敬の念と、生きることの間の——いわば次善の策だったのではないかと思うのです。

そして、托鉢の、粗末にしてはいけないというルールの中にも、自分のために殺されたものであってはいけない——という、最低限の留保はありました注意

それが原型であり、お釈迦様の教えの本質で…。でも、時代を経るごとに、それが少しずつ変わって(変えられて?)いったのではないかと思えてならないのです。

「自分が手を下さなければいい」に。
「直接殺していなければいい」に。

これはキリスト教も同じではないかと思います昇天聖書の最初、創世記には「神は草と実をあなたたちに与えよう、それが食べ物となる」と書かれています。

原初の人間の食は、植物だったのです。

肉食が許されるのはノアの洪水以降のこと。

どの宗教も、最初の教え…本来の核心から遠ざかっていってしまったのですダウン。特に日本は、それが著しかったように私にはみえます。 


  時代と共に失われたもの

なぜ日本はそこまで変わってしまったのでしょうか。


これは私の考えですが——日本人が長い時間をかけて育んできた精神が、明治維新や敗戦を機に取り上げられてしまったのではないかと思っています叫び


意図的だったのか、時代の流れだったのか、真意は今となってはわかりません。そうするのがいい、よくしたいと思って、信じて進めていた人たちもいたかもしれません。


でも結果として、八百萬の神への畏敬も、不殺生の思想も、日本人の日常から遠ざかっていってしまいました。…残念です悲しい

失われたのは、食の選択だけではなかったと思います。

哲学や選択という感覚そのものが…


  自分の思考と意思で選ぶということ

 だから今、菜食を選ぶ日本人が少ないのかもしれませんショボーン。哲学を忘れてしまったから… 


 でも、本来はあったのです。

 日本ならではの、崇高で美しい哲学が✨


 私が願うのは、ただひとつ。

 知って、考えた上で選んでほしいと思うのです。誰かに与えられた「当たり前」ではなく、自分の哲学として。 


 だから、そのプロセスを踏んで、肉食を選ぶなら選んでもいいと思います。 

それがその人の哲学で選択だから。

それは尊重したいと思います。


 自分の思考で、自分の意思で、自分の人生を生きてほしい。

何を食べるかは、自分の哲学がストレートに現れる選択だと思うのです。


  自分の選択

私は何度考えても、同じところに戻ってきます。


『菜食で平和に』


完璧な選択ではないと思いますあせる

植物も命だから… 


 それでも、悩みながら選ぶことが——誰かを想いながら選ぶことが、平和への小さな一歩になると信じています飛び出すハート


 そしてその積み重ねが、きっと自分自身も変えていくと思っていますニコニコ。