源氏光の随筆

源氏物語を読んでいて、

光源氏はこんな風に思っていたのかな?

と、思いながら読み進めていくと

結構楽しかったので、ブログに書いてみました。

素人なので文面や源氏物語から外れる部分もあるかと思いますが

温かい目でお読みくださいね。


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元服

元服の日を迎え、私の心は沈んでいた。


父帝は兄宮に劣らないようにと「特別に配慮するように」と皆に告げていました。

私の元服の義にはもちろん亡き母はいませんが、

父帝の心の中でしっかりと見届けてくださったと思います。


私の添い臥し(新妻)には左大臣の姫君が選ばれた。

噂では兄宮の女御として入内を望まれていたらしいが、

その頃から父帝と左大臣は私にと思われていたらしい。


この一件を始めとして右大臣と私の確執が生まれてしまったのだと思うが・・・。

兄宮は右大臣家の姫君(弘徽殿の女御)との間に生まれた東宮で、

弘徽殿の女御は私の母である桐壺の更衣にかなりの嫉妬心があったので、

何かと私に対しても嫉妬心やライバル心があったようだ。


でも、兄宮はそんな弘徽殿の母と違い優しく人柄も良いが、

何かと母の意見を聞かないとダメな少し頼りのない人柄である。


宴の席も終わり私はいよいよ左大臣家に向かうこととなった。

そこには私の妻となる「葵の上」が待っていた。


葵の上は私より歳が4つ上で、母は私の父帝の同腹の妹である。

なので、私のいとこでもある。

小さな時から東宮妃にと育てられたので、気位も高く上品で高貴な人だが、

少し私に対して冷たい所があるようにも思えた。

やはり、私が親王の位から臣下に下ったからなのかもしれないが・・・。


葵の上には兄がいてこの頃は頭の中将と呼ばれていて、

何かと私と張り合っていた。

友であり議兄でありいとこでもあり、後に政敵にもなる。

そして何よりも恋のライバルでもあった。


私は元服後もほとんど御所で過ごすことが多く、

父帝と過ごすことも多かったが、

やはりもう御簾の中にまで入れてくださることはなく

もちろん、藤壺の宮と逢うことは出来なかった。


でも、私の心の中は逢えていたあの頃よりも

なおも深く深くその人に恋焦がれていた。

輝く日の宮

入内された藤壺の女御様は14歳

私は9歳でした。


姉のように慕いながら日々を楽しく過ごしていましたが、

心の奥底には姉や母などのような肉親への愛情とは違う

もっと息苦しい気持ちが混ざっていたのです。


知り合ってすぐの9歳の私にはこの気持ちの意味が分からないでいましたが、

元服の日を翌日に控えた12歳の私には

もう、はっきりと分かっていました。


月が昇りもう山に隠れそうになっていた時に

自分の気持ちを抑えられなくなり、

藤壺の女御のお部屋に行ってしまいました。


女御は私に部屋に戻るようにと優しく言ってくれましたが、

私はその言葉も聴かずに御簾の中へ入って行きました。


女御はお顔を隠してしまい、私の方を見ようともしてくれなかったので

私は悲しくなりその場で立ち尽くしたままで泣いていました。


「私とあなたは間違ってしまったのです。

この時代に生まれてしまったことが・・・。」


女御様も私と同じように泣いてました。

きっと私と同じ気持ちで。


私は許されないと知りながらも、

気持ちを押さえ込むことが出来ずに、

彼女を後ろから抱きしめてしまいました。


こちらに振り向いた彼女は私を優しく包み込み

そして、おでこに唇をそっとよせてくれました。


「さぁ、もうお帰りなさい。」


そう言った彼女は私を胸から引き離して

隣の部屋へと姿を消してしまいました。

藤壺様

父帝は私の将来を考えて、後見人もないまま親王でいて、

惨めな生活をするよりも、

臣下にして朝廷の補佐役にすれば、自分の亡き後も安心して

過ごせるかと思って下さったようです。

私は臣籍を頂き源氏の姓になりました。


父帝は私が源氏になっても昔と変わらず可愛がってくれました。

でも、どんなにときが過ぎても母のことが忘れられないようで、

新しい女御などをお呼びになったりしましたが、

父帝の心の穴を埋められるような女性は現れませんでした。


そんな時に亡き先帝の四女の姫宮様が亡き母にそっくりだと聞き

父帝は半信半疑のまま、その姫宮様をお呼びになりました。


私は父帝と一緒にその姫宮様に会うことが出来たのです。

母は私が小さい時に亡くなっていたので、

私の記憶に中に母の面影はなかったけど、

その姫宮様を見た時に、

母とはこんなに美しく愛しいものなのかと思いました。


彼女の名は『藤壺』


私の最愛の人です。



光君

母が亡くなったあとは、私は母方の祖母の家に行くことになりました。

内裏では父帝がいました、私の面倒を見てくれる者もいなく、

祖母が内裏に私一人を残しておくことを心配したからです。


それから3年の月日が流れたころ内裏では東宮を決める時が

近づいていました。

父帝は本当は私を東宮にしたかったみたいですが、

弘徽殿の女御が生んだ一ノ宮を東宮にしました。

やはり、愛だけでは世の中の決まりを変えることは出来なかったようです。

東宮が一ノ宮に決まったのを祖母がしってからは、

かなり気落ちをしてしまい、「一日も早く娘のところに行きたい」

と、嘆いたばかりいたせいで祖母もとうとう亡くなってしまいました。


私も母のときと違い死の意味も理解できていたので、

本当に悲しく、毎日泣いて暮らしていました。

そんなときに、喪が明けた私を父帝は内裏に呼び寄せてくれました。


父帝にしたら、母も祖母も亡くなった私を一人で残しておくことは

忍びなかったのでしょう。

内裏に帰ってきたからは父帝は母の形見として私を

母を愛したように可愛がってくれました。


ある時、高麗国から来た占い師がよくあたると聞きつけた父帝は、

早速呼び押せて、皆に内緒で私を占ってもらったそうです。

「この子は不思議な人相がでています。

将来国の父となり帝王になられる人相をお持ちですが、

もしそうなれば国が乱れてしまう恐れがあり、

また天下の政治を補佐する方と思い人相を見ると、

またそうでは無いように思われます」と、伝えたそうです。


それを聞いた父帝は元服後の私の将来を決めたそうです。

この高麗人が私のことを「光り輝く君」と呼んだので、

その後は皆が私のことを「光君」と呼ぶようになったようです。

『幼心』

私に物心がついたのは、
母方の祖母が亡くなった6歳ぐらいだと思う。

私の母は私が3歳の時に亡くなっていて、
なんとなく周りの大人達が悲しそうに泣いているのを
覚えているだけだ。

私の母は内裏に入内して帝に愛されて、
そして、死んで行った。

母は幸せだったのだろうか・・・?

母が入内した時の部屋は桐壺でその部屋の更衣だったので、
母は『桐壺の更衣』と呼ばれて、その母を心から愛した父は
桐壺帝と呼ばれていた。
帝である父には、沢山の妻がいた。
子孫繁栄のためには、沢山の子供をもうけないといけない。
だから、子供を生める姫方が沢山、妻として内裏に入内していた。
その中の一人が私の母であった。

入内した姫方には身分によって、
女御・更衣などに分かれれていた。
女御の方が位が上なので、中宮(皇后)になれる
姫方だった。

母は更衣だったのに、父帝に愛されすぎて、
他の姫方の嫉妬の的となり、
気苦労から体を壊して死んでしまったのだ。

父帝にしたら母はただ一人の愛する人だったに違いない。
父の周りには権力争いをする者たちであふれていた。

母の父は大納言で身分は低く、しかも入内した時には
もう、亡くなっていたので権力争いからは遠い所にいる姫君だった。
そういう立場で、しかもどの姫方よりも美人で心優しい
母を愛していたんだと思う。

周りの者たちは、父と母の愛を
唐の玄宗皇帝と楊貴妃のように愛におぼれて政治が悪くなって
国が滅びてしまうのではないかと言い合ってました。
それでも、父帝は愛する人を守るためなら
すべてを敵にまわしてもいいとまで思っていました。

母が亡くなる直前に父帝は
「死の旅も必ず二人でと固く約束したのに、どうしてあなたは
私をひとり残して行ってしまうのですか」と声をかけたそうです。
母はもまた、自分の最後の時が近づいていることを分かっていたので、
衰弱しきっている身体で最後の返事をしました。
「こんな事になるなら、もっと永く生きて貴方と光の君と末永く過ごしていたいと
願えば良かった、貴方との別れがこんなにも辛く、寂しものになるならば・・・」と、
最後の方は言葉には苦しさのあまり言葉になっていなかった聞きました。

やはり、母は父に愛されて幸せだったのかもしれません・・・。