みなさん、こんばんは、最近『シュレック』と『最強のふたり』を観ました。
二本とも、通奏低音としてのテーマが共通していると感じました。
ずばり「いかにして、ルールやしがらみの外側で本当の絆を構築するか」が描かれていました。
『シュレック』では、領主ファークアード卿とその住民たちの、一見「整然」としているが、実際は「血の通っていない冷徹な管理社会っぷり」を浮かび上がらせ、対するシュレックは、「不潔で人嫌いでへそ曲がり」だが、「心がピュアで真っ直ぐな怪物」として対照的に描かれていました。
最後は、夜になるとシュレックと同族の怪物になってしまう美女フィオナ姫の呪いが解かれるも、実はフィオナ姫の本当の姿は怪物だったことが明らかになる。これは、人間誰しも醜い部分があり、それを自分も受け入れ、かつ、受け入れてくれる相手と歩んでいくべき、との示唆か。
先進国の管理社会に適応すると、いかに人は、「人の痛みを自分の痛みと感じられないクズ」となり下がってしまうのか、を改めて痛感。そのクズ状態から脱出するには、自分の愚かさ、醜さを隠さず受け入れ、かつ、相手のそのような部分も抱きしめ、支え合うことでしか達成できないよ、ということを気づかせてくれる良い映画。
『最強のふたり』も、首から下が不自由な富豪が、心の許せるヘルパーとして最終的に選んだのは、社会の外側で生活に喘いでいたアフリカ系前科もの。彼は、社会の歯車やネジに成り下がっておらず、地に足付いた生活をしてきたからこそ、醸し出せる自分を突き動かす純粋な力を持つ。
富豪は、病院や学問の世界に長くいたヘルパーとは、心の繋がりを構築できず、うつになりかけていた。アフリカ系の前科者が、富豪が何を心の底で望んでいるのかを察知し、お膳立てをするところで映画が終わる。
社会を生きていく上で必要な、「人の心のヒダをやさしく折り返して読み取る能力」を、社会で生きていることで失ってしまうというジレンマ。そこから抜け出すには、社会の外側にも軸足を置き、そこで助け合い、絆を造っていくことから始めるしかないのだな、そう思った。