再び岡本太郎『今日の芸術』からの引用。
「公言は公約です。『おれこそ芸術家である』と宣言した以上、すべてそれ以後のわざわいは、おのれだけに降りかかってくるのです。だまっていれば無事にすんだものを。しかし、ノッピキならない立場に、自分を追い込まなければいけない。言ったばかりに徹底的に、残酷なまでに責任をとらなければなりません。言ったことが大きければ大きいほどそうなんです。…(中略)…自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きなものに賭けることになるのです。だから猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって問題を進めてゆくべきです」
もしも、僕が自分の夢と目標を、一度も宣言せずに今日を迎えていたら。
きっと、すでに夢は霧散して、なつかしい野の花のような、思い出に成り果てていただろう。
僕一人の力では、今日まで信念を持ち続けることはできなかった。
夢を吹聴し、語り回ることで、いつしかそこで「語られる自分」が
「それ以外の自分ではありえない」ほどに、確立されていった。
22歳の僕は、今抱いている夢を、もう絶対に手放すことはできない。
手放すには、多すぎる人達に、宣言をし終えてしまっている。
すでに僕の夢は彼らに共有されており、たとえばもし、僕が途上で諦めたなら
それは失望の眼差しとなって、全方向から僕を責め立てるだろう。
そして、僕の人間としての面白みは消滅し
生殖機能を持て余した、ただの男と成り果てる。
>言ったばかりに徹底的に、残酷なまでに責任をとらなければなりません。
岡本太郎の言葉は、時に大げさに聞こえる。
しかし、彼にとっては大げさでもなんでもなく、
彼が実感として抱いている真剣さと切実さを表現するには
主食に次ぐ主食というような、力強い言葉を重ねるしかないのだろう。
それほどの大げささで、「宣言をした」という行為に責任を持つということ。
きっと誰でも、宣言をするときには、何があってもそれを断行すると
ありったけの切実さで決意した筈だ。
もし、それすら守りきることができないとしたら、
それだけ搾り出した自分の言葉すらコロコロ変わるようでは、
以降、どんな言葉をも全く意味をなさないだろうし、
人間としての価値は、瓦解していくだろう。
「公言は公約です。『おれこそ芸術家である』と宣言した以上、すべてそれ以後のわざわいは、おのれだけに降りかかってくるのです。だまっていれば無事にすんだものを。しかし、ノッピキならない立場に、自分を追い込まなければいけない。言ったばかりに徹底的に、残酷なまでに責任をとらなければなりません。言ったことが大きければ大きいほどそうなんです。…(中略)…自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きなものに賭けることになるのです。だから猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって問題を進めてゆくべきです」
もしも、僕が自分の夢と目標を、一度も宣言せずに今日を迎えていたら。
きっと、すでに夢は霧散して、なつかしい野の花のような、思い出に成り果てていただろう。
僕一人の力では、今日まで信念を持ち続けることはできなかった。
夢を吹聴し、語り回ることで、いつしかそこで「語られる自分」が
「それ以外の自分ではありえない」ほどに、確立されていった。
22歳の僕は、今抱いている夢を、もう絶対に手放すことはできない。
手放すには、多すぎる人達に、宣言をし終えてしまっている。
すでに僕の夢は彼らに共有されており、たとえばもし、僕が途上で諦めたなら
それは失望の眼差しとなって、全方向から僕を責め立てるだろう。
そして、僕の人間としての面白みは消滅し
生殖機能を持て余した、ただの男と成り果てる。
>言ったばかりに徹底的に、残酷なまでに責任をとらなければなりません。
岡本太郎の言葉は、時に大げさに聞こえる。
しかし、彼にとっては大げさでもなんでもなく、
彼が実感として抱いている真剣さと切実さを表現するには
主食に次ぐ主食というような、力強い言葉を重ねるしかないのだろう。
それほどの大げささで、「宣言をした」という行為に責任を持つということ。
きっと誰でも、宣言をするときには、何があってもそれを断行すると
ありったけの切実さで決意した筈だ。
もし、それすら守りきることができないとしたら、
それだけ搾り出した自分の言葉すらコロコロ変わるようでは、
以降、どんな言葉をも全く意味をなさないだろうし、
人間としての価値は、瓦解していくだろう。