全ての女性は「直子」であり、全ての女性は「緑」である。そして僕達は、「直子」か「緑」を常に選択し続けなければならない。村上春樹が1960年代末を生きる大学生の青春を描いた『ノルウェイの森』の話だ。
直子は、主人公ワタナベがその大学生活をかけて愛しながらも、精神病院での生活を余儀なくされ、ワタナベを残したままひっそりと自殺してしまった女性だ。緑はというと、直子と離れ離れとなっているワタナベの前に彗星の如く現れ、その瑞々しい魅力でいつのまにかワタナベの心を奪っていった女性である。この物語では、ワタナベが常に離れ離れとなった直子のことを想い続けながらも、どうしようもなく緑に惹かれていく心の動きが丁寧に描かれている。
彼女達のイメージについて語ろう。直子はこの物語を通して、「大人」で「落ち着きのある」女性として描かれている。精神病院にて、感情の抑制がつかずに取り乱すことがあっても、どこか「品性」が漂っていた。物腰や言葉遣いの丁寧さ、そしてワタナベ自身が、彼女を「これはなんという完全な肉体なのだろう」と描写しており、ワタナベが抱く女性の理想像はまぎれもなく直子なのだということがわかる。毎週日曜日にデートして、東京の街を散歩したり、お互いの大学生活や恋愛について語り、お互いの誕生日を祝った。
一方で緑は「無邪気」で「破天荒」で、言動に突拍子がないところがあり、それが「瑞々しい」描写で描かれている。感情的で、言いたいことを言い、思うがままに行動する。彼女の言動に何度も唖然とさせられるワタナベの姿が登場するが、いかに彼にとって新鮮で予想がつかず、新しいタイプの女性だったということだろう。図書館に向かうワタナベを捕まえて「そんなところに行くのはやめて、私とご飯食べに行きましょうよ」「もう食べたよ」「もう一度食べなさいよ」と強引に誘っていくシーンが僕はすごく好きで、強引ながらも清清しく、しょうがないなと思わせてしまう。そんな魅力が緑にはあふれている。
「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです」
これはワタナベが、自身の揺れ動く感情を手紙に託した中の一節であるが、彼が抱く彼女達への印象を端的に表現しているだろうと思う。結局ワタナベは、緑を愛していると自覚するものの、その選択に責任を持たないままに、直子は自殺してしまった。
上に書いた彼女達のパーソナリティは、もちろん彼女達の性格を表したものには違いない。しかし、この物語はワタナベの一人称で語られていることから、「彼が、彼女達をどのように感じたのか」というフィルターがかかっていることを忘れてはならない。すなわち、緑は瑞々しい魅力を持っていると描かれているが、それはあくまでも、ワタナベがその時期に、主観的に感じた彼女の印象であって、「絶対的に彼女が瑞々しい魅力を放っている」とは言うことはできないということだ。たしかに文中には、限りなく短いミニスカートから伸びた緑のしなやかな足や、それに釘付けになる周囲の反応、緑の容姿に関する描写を客観的に見ても、彼女が魅力的な女性ということは想像できる。
しかし、緑がワタナベの前に現れたのは、直子と離れ離れとなりルームメイトとも別れ、孤独な日々を送り始めた矢先のことであることや、それ以降の日々、直子に代わって緑とだけ定期的に遊び、語り続けたことなどを考えると、ワタナベの目に実際以上に緑が「瑞々しく」魅力を放って見えたのではないだろうか。実際、直子と語りあった内容や過ごした日常の描写に比べ、緑のそれはより克明に、より多く、より魅力的に描かれている。もし直子と離れ離れにならないうちに緑が現れたら、緑に対してあそこまで暴力的なまでの魅力を感じることはなかったのではないか。
直子の描写は落ち着いている。静かなやさしさと暖かな親しみに包まれている。言い換えればそれは、直子とワタナベとの関係性がすでに「落ち着いた」ものとなっており、お互いの存在をすでに慣れ親しんだものとして捉えているからと僕は思う。直子とワタナベが出合ったのは高校2年生のときであり、もう自殺してしまった親友のキズキを含めた3人で、親密な空間を共に過ごしてきた。当時直子はキズキの恋人だったために、ワタナベは直子を、少し距離を取って眺めていたのは確かだろう。しかしそれでも、直子に出合ったその時や、あるいは大学1年生で再会したその時、不器用ながらにデートを繰り返した期間、果たしてワタナベは直子に対し「瑞々しさ」を感じることはなかっただろうか。いや、感じずにはいられなかったハズだ。新しい出会いにときめくように、直子に対してもまた、緑に感じたような瑞々しい魅力をワタナベは感じ取っていた。デート中ぎこちない会話や、毎週土曜日直子からの電話を待っている時間。直子の歩く後姿を眺めながらの東京散歩――それはワタナベにとっては、緑に感じた魅力と同じくらいに力強いものであったに違いない。
それが描写されていないがために、新しく出合った緑の、印象や会話や過ごした時間がよけいに魅力的思えてしまうのだ。多感な僕達大学生にも経験があるだろう。新しい出会いにときめいたり、その相手との一言二言の言葉のやり取りが妙に印象的であったり…。しかし、その真新しさや新鮮さ、瑞々しさがいつまでも続くわけではないことも、僕達は良く知っている。長い時間を共有するようになれば、いつかはその感覚が「スタンダード」になる。瑞々しく感じられた関係性も落ち着いてくる。お互いに慣れ親しみ、知ることによって、それまでとは違った見方をするようになり、別の印象が芽生え始める。
この物語でワタナベは始終緑の魅力に翻弄されっぱなしであった。そして「僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです」と断定するまでに至った。しかし、緑のその魅力がいつまでも「立って歩き、呼吸し、鼓動している」ままでいるだろうか。物語が終わった後も、彼らの関係性は続いていく。そして寄り多くの時間を、長く共有しあうことによって、いつのまにか緑に対する感情や印象が「静かで、落ち着いたもの」になる時がくるのではないか。いつのまにか緑がワタナベにとっての「スタンダード」となるのではないか。その時、緑は「直子」になるのである。直子にしたような描写でもって、緑を語るようになるのである。そしてワタナベの前に、いつか、緑にはない魅力を携えた、新しい「緑」が現れる。緑を語ったような瑞々しさでもって「緑」を語り始めるときが来るのである。
そしてその時、ワタナベは再び選択を迫られることになるだろう。「直子」か「緑」か。そしてその選択に対して責任を持たなくてはならないのである。ワタナベに限った話ではない。これは僕達に突きつけられた命題なのである。「直子」を取るのか。「緑」を取るのか。その選択をしなければならない局面と、対決しなければならないときが必ず訪れる。
物語では直子が自殺したことによって、ワタナベはこの選択と責任を回避することができた。回避することができてしまったのだ。果たさなくてはならない責任を、最後の最後に投げ出してしまったのだ。だからワタナベは大人になりきることができなかった。あれほど「大人になろう」と決意したのにもかかわらず、最後の最後でその責任を果たさずに終わってしまった。
「僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だった。僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けていた」
物語の終わりで、ワタナベは自分の場所を見失う。選択をしなかった罰として。責任を回避した弱さによって。自分を自分で支えることもできないまま、緑だけを頼りに呼び続ける姿はまるで子供のようである。この物語は、大人になることへの苦しみや葛藤、闘争という誰でもが潜り抜ける命題に真剣に向き合ったからこそ意味があるのであり、「愛する人を選び取る」という究極の通過儀礼を僕達に提示してくれるからこそ、読まなくてはならないのである。
最後にもう一度書く。全ての女性は「直子」にもなるし「緑」にもなる。女性に限らず男性の場合でもそうだ。そして僕達は、「直子」か「緑」かを選択しなくてはならない場面に直面する。その時、逃げることなく選択することが、自分の選択に責任を持つことが、「大人になる」ということなのだ。これは僕達の問題である。僕達一人ひとりが向き合わねばならない闘争である。
この物語は、大学3年生の10月で終わる。僕はもうワタナベの過ごした季節を越えてしまった。これからの物語は、僕自身が紡いでいかなくてはならないのだ。
直子は、主人公ワタナベがその大学生活をかけて愛しながらも、精神病院での生活を余儀なくされ、ワタナベを残したままひっそりと自殺してしまった女性だ。緑はというと、直子と離れ離れとなっているワタナベの前に彗星の如く現れ、その瑞々しい魅力でいつのまにかワタナベの心を奪っていった女性である。この物語では、ワタナベが常に離れ離れとなった直子のことを想い続けながらも、どうしようもなく緑に惹かれていく心の動きが丁寧に描かれている。
彼女達のイメージについて語ろう。直子はこの物語を通して、「大人」で「落ち着きのある」女性として描かれている。精神病院にて、感情の抑制がつかずに取り乱すことがあっても、どこか「品性」が漂っていた。物腰や言葉遣いの丁寧さ、そしてワタナベ自身が、彼女を「これはなんという完全な肉体なのだろう」と描写しており、ワタナベが抱く女性の理想像はまぎれもなく直子なのだということがわかる。毎週日曜日にデートして、東京の街を散歩したり、お互いの大学生活や恋愛について語り、お互いの誕生日を祝った。
一方で緑は「無邪気」で「破天荒」で、言動に突拍子がないところがあり、それが「瑞々しい」描写で描かれている。感情的で、言いたいことを言い、思うがままに行動する。彼女の言動に何度も唖然とさせられるワタナベの姿が登場するが、いかに彼にとって新鮮で予想がつかず、新しいタイプの女性だったということだろう。図書館に向かうワタナベを捕まえて「そんなところに行くのはやめて、私とご飯食べに行きましょうよ」「もう食べたよ」「もう一度食べなさいよ」と強引に誘っていくシーンが僕はすごく好きで、強引ながらも清清しく、しょうがないなと思わせてしまう。そんな魅力が緑にはあふれている。
「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです」
これはワタナベが、自身の揺れ動く感情を手紙に託した中の一節であるが、彼が抱く彼女達への印象を端的に表現しているだろうと思う。結局ワタナベは、緑を愛していると自覚するものの、その選択に責任を持たないままに、直子は自殺してしまった。
上に書いた彼女達のパーソナリティは、もちろん彼女達の性格を表したものには違いない。しかし、この物語はワタナベの一人称で語られていることから、「彼が、彼女達をどのように感じたのか」というフィルターがかかっていることを忘れてはならない。すなわち、緑は瑞々しい魅力を持っていると描かれているが、それはあくまでも、ワタナベがその時期に、主観的に感じた彼女の印象であって、「絶対的に彼女が瑞々しい魅力を放っている」とは言うことはできないということだ。たしかに文中には、限りなく短いミニスカートから伸びた緑のしなやかな足や、それに釘付けになる周囲の反応、緑の容姿に関する描写を客観的に見ても、彼女が魅力的な女性ということは想像できる。
しかし、緑がワタナベの前に現れたのは、直子と離れ離れとなりルームメイトとも別れ、孤独な日々を送り始めた矢先のことであることや、それ以降の日々、直子に代わって緑とだけ定期的に遊び、語り続けたことなどを考えると、ワタナベの目に実際以上に緑が「瑞々しく」魅力を放って見えたのではないだろうか。実際、直子と語りあった内容や過ごした日常の描写に比べ、緑のそれはより克明に、より多く、より魅力的に描かれている。もし直子と離れ離れにならないうちに緑が現れたら、緑に対してあそこまで暴力的なまでの魅力を感じることはなかったのではないか。
直子の描写は落ち着いている。静かなやさしさと暖かな親しみに包まれている。言い換えればそれは、直子とワタナベとの関係性がすでに「落ち着いた」ものとなっており、お互いの存在をすでに慣れ親しんだものとして捉えているからと僕は思う。直子とワタナベが出合ったのは高校2年生のときであり、もう自殺してしまった親友のキズキを含めた3人で、親密な空間を共に過ごしてきた。当時直子はキズキの恋人だったために、ワタナベは直子を、少し距離を取って眺めていたのは確かだろう。しかしそれでも、直子に出合ったその時や、あるいは大学1年生で再会したその時、不器用ながらにデートを繰り返した期間、果たしてワタナベは直子に対し「瑞々しさ」を感じることはなかっただろうか。いや、感じずにはいられなかったハズだ。新しい出会いにときめくように、直子に対してもまた、緑に感じたような瑞々しい魅力をワタナベは感じ取っていた。デート中ぎこちない会話や、毎週土曜日直子からの電話を待っている時間。直子の歩く後姿を眺めながらの東京散歩――それはワタナベにとっては、緑に感じた魅力と同じくらいに力強いものであったに違いない。
それが描写されていないがために、新しく出合った緑の、印象や会話や過ごした時間がよけいに魅力的思えてしまうのだ。多感な僕達大学生にも経験があるだろう。新しい出会いにときめいたり、その相手との一言二言の言葉のやり取りが妙に印象的であったり…。しかし、その真新しさや新鮮さ、瑞々しさがいつまでも続くわけではないことも、僕達は良く知っている。長い時間を共有するようになれば、いつかはその感覚が「スタンダード」になる。瑞々しく感じられた関係性も落ち着いてくる。お互いに慣れ親しみ、知ることによって、それまでとは違った見方をするようになり、別の印象が芽生え始める。
この物語でワタナベは始終緑の魅力に翻弄されっぱなしであった。そして「僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです」と断定するまでに至った。しかし、緑のその魅力がいつまでも「立って歩き、呼吸し、鼓動している」ままでいるだろうか。物語が終わった後も、彼らの関係性は続いていく。そして寄り多くの時間を、長く共有しあうことによって、いつのまにか緑に対する感情や印象が「静かで、落ち着いたもの」になる時がくるのではないか。いつのまにか緑がワタナベにとっての「スタンダード」となるのではないか。その時、緑は「直子」になるのである。直子にしたような描写でもって、緑を語るようになるのである。そしてワタナベの前に、いつか、緑にはない魅力を携えた、新しい「緑」が現れる。緑を語ったような瑞々しさでもって「緑」を語り始めるときが来るのである。
そしてその時、ワタナベは再び選択を迫られることになるだろう。「直子」か「緑」か。そしてその選択に対して責任を持たなくてはならないのである。ワタナベに限った話ではない。これは僕達に突きつけられた命題なのである。「直子」を取るのか。「緑」を取るのか。その選択をしなければならない局面と、対決しなければならないときが必ず訪れる。
物語では直子が自殺したことによって、ワタナベはこの選択と責任を回避することができた。回避することができてしまったのだ。果たさなくてはならない責任を、最後の最後に投げ出してしまったのだ。だからワタナベは大人になりきることができなかった。あれほど「大人になろう」と決意したのにもかかわらず、最後の最後でその責任を果たさずに終わってしまった。
「僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だった。僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けていた」
物語の終わりで、ワタナベは自分の場所を見失う。選択をしなかった罰として。責任を回避した弱さによって。自分を自分で支えることもできないまま、緑だけを頼りに呼び続ける姿はまるで子供のようである。この物語は、大人になることへの苦しみや葛藤、闘争という誰でもが潜り抜ける命題に真剣に向き合ったからこそ意味があるのであり、「愛する人を選び取る」という究極の通過儀礼を僕達に提示してくれるからこそ、読まなくてはならないのである。
最後にもう一度書く。全ての女性は「直子」にもなるし「緑」にもなる。女性に限らず男性の場合でもそうだ。そして僕達は、「直子」か「緑」かを選択しなくてはならない場面に直面する。その時、逃げることなく選択することが、自分の選択に責任を持つことが、「大人になる」ということなのだ。これは僕達の問題である。僕達一人ひとりが向き合わねばならない闘争である。
この物語は、大学3年生の10月で終わる。僕はもうワタナベの過ごした季節を越えてしまった。これからの物語は、僕自身が紡いでいかなくてはならないのだ。