子供達にとっての
おじいちゃんが旅立ちました。
1年前から食道がんで、
手術はしたものの再発し、
緩和ケアのお部屋に移動した
その日に、いってしまいました。
最初に病気が見つかった時に
かなり進行していたので、
ある程度の覚悟をしながら過ごしました。
入院中にお見舞いにいったり、
週末は家に戻ってきたりしていたので、
子供達と泊まりに行ったり。
出来る範囲のことはしながら、
心積もりをしていきました。
カホは、言わずとも色々なことを
察していたと思います。
お手紙を書いて渡したり、
一緒に遊んでもらったり、
おじいちゃんに好きと伝えたり、を
彼女なりに精一杯していました。
その手紙を、お爺ちゃんは
大事にとって何度も見てくれていました。
最後の方は、痩せて歩くのも大変になり、
声も掠れていました。
痛みをモルヒネでだましながら
耐えていました。
そして、和室にベッドを運んで
1日の大半を横になって
過ごすようになりました。
そうなると、カホは一人で
おじいちゃんの部屋にいき、
一緒に過ごすようになりました。
ひらがなを教えてもらったり、
添い寝もしていたようで、
おじいちゃんが喜んでいた、と
おばあちゃんが言っていました。
ソラも、ミニカーや乗り物のおもちゃで
遊んでもらったりして、
その時のおじいちゃんの笑顔がとても
幸せそうでした。
最後の日、緩和ケアの説明に
家族が呼ばれて、私も同席しました。
その説明は、死を前提としているので
つらく切なく、家族に対して、
延命措置を行わない同意を
確実にとるためのもの。
一番泣いちゃいけない嫁が、
義母と夫より涙を流してしまってました。
その日、朝から息苦しいといっていた
おじいちゃんは、緩和ケア病棟の
新しいお部屋に移動しました。
そして、帰りがけに
今度カホソラも連れてきますね、と
挨拶をしたら、目を見て頷いてくれました。
これが、最後になりました。
その夜、夕食を食べおわるころ、
電話がありました。
パパにかかってきた電話の先で
おかあさんの泣き声が聞こえました。
そこから急いで支度をして
子供達も連れて病院へ行きました。
パパは高速を飛ばしながら、
スピードが出過ぎないよう
一定のスピードに抑えているのが
伝わってきました。
病室につくと、
目を開けたまま動かない
おじいちゃんが横たわっていました。
そして、
お医者さんがやってきて、
ご臨終です、と告げました。
私達が到着するのを待って、
看取った、というカタチに
してもらったようでした。
子供達は夜のお出かけに浮かれながら
親やおばあちゃんの様子を
不思議そうに見ながら
お利口にしていました。
その後、私と子供達だけ一度帰宅して
次の日に必要なものを持って
おばあちゃんの家に向かいました。
おにいさんが遠方だったのもあり、
喪主の役割を夫がすることになりました。
とはいえ、無宗教で家族葬、
一般のものとは違い、本当に
ごく近い親族の一部だけで見送りました。
カホは骨を拾うのも一緒にして
おじいちゃんの骨!と
骨になったことを自然に受け入れて
おばあちゃんの家に行くたびに、
おじいちゃんの骨あるね!と
遺影の側にあるお骨を
笑顔で指差し、挨拶をします。
5歳のカホにどう伝えるか、
考えたこともあるけれど、
結局何も伝えていませんでした。
ただ、最後に病院に向かう時は
おじいちゃんと、もう
お話しできなくなるかもしれない、
と話しました。
なんで?と言われても答えに困ると
カホはそれ以上きいてきませんでした。
でも、
何も教えていないけれど
自分の見たことを素直に受け止めていて
自分の中に事実をおとしこんでいました。
凄いなぁと思いました。
昨日も、保育園に行くときに、
おじいちゃん死んじゃったけど好きー!
と言いながら靴を履いていました。
子供ってすごいなぁと。
おかあさんも、凄かった。
一番、大変で頑張っていて。
1年で覚悟をかためていく姿を
見せてもらいました。
そして夫とお兄さんの
全力のサポートもありました。
葬儀後の諸々の手続きは大変だけれど、
兄弟ともに過保護なほどに、
徹底したお母さんへのフォロー体勢、
感服しました。
おとうさんは、
素敵な家族を築いてきたんだなぁ、と。
私もほんとによくしてもらって、
色々、学ばせていただきました。
私にできることは、ただひとつ。
おじいちゃんの遺伝子を持った
子供達を、大事に育てていきます。
おとうさん、
お疲れ様でした。
そして、
ありがとうございました。