朝鮮半島で虐殺された日本人17690名


この記事は『秘録 大東亜戦史』所収
元京城日本人世話会・森田芳夫氏がお書きになった「朝鮮引揚史」に基づくものです。



ブログのタイトルが激しいですが…
このような史実こそ、私達は学び伝えていかなければと思います。
都合良くドラマチックに作られたストーリーを
史実として書き換えられないためにも。。。


そして
日本国内で「ヘイトだ!」と言っている在日外国人は、日本人が朝鮮で受けた攻撃・暴力・脅迫・侮辱、そんな恐怖のヘイトを日本で受けたことはありません‼️

それどころか
いつのまにか日本に入り込み、
ヘイトだ差別だと、騒ぎ散らし
日本の福祉に寄生しながら
日本人より裕福に暮らしている。
与えられるべき権利などないのに
ヘイトだといえば全てが手に入る…

残留を強制されたり、
抑留されているわけでもない人たちが、
ヘイトと騒ぐ。。。




上記の記事を抜粋し編集したものがありましたので、コピペします。

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戦後、朝鮮半島で虐殺された日本人17690名と言っても軍人ではありません。日本敗戦直後、朝鮮半島で虐殺された一般の日本人の数です。この中には赤ん坊や女性、子供も含まれています。 

在鮮日本軍人のソ連への強制連行や引揚は終戦の翌年四月までに完了しましたが、日本の民間人は「米ソ協定締結後に送還する」という理由で戦後三年間も朝鮮半島に抑留されました。 

その三年間の間に、朝鮮人、米軍、ソ連軍に全財産を没収された日本人は、家もなく乞食同然に野辺をさまよいながら朝鮮人の暴力や病気、飢餓、寒さなどで次々に死んでいきました。

その遺体は棺を買う金も、火葬する金もないためにコモやムシロで巻かれ土葬されました。 
戦争は終わったのに、軍人ではない民間人が抑留され、殺されたのです。



まず、米軍と朝鮮人は日本人の身ぐるみをはぐことから開始しました。朝鮮人は暴力で日本人の財産を接収し、接収後は日本人の立ち入りを禁止しました。また米軍も接収した日本人の資産を朝鮮人に管理させました。 

次に米軍は日本に引き揚げる際の手荷物を二個まで、と規定して家財や他の荷物は宅配で送る、と言って日本人から手数料を取りました。しかし日本に帰還した人の手元に荷物は届きませんでした。
なぜなら、米軍と朝鮮人が荷をほどいて山分けしてしまったからです。その上、米軍は在鮮日本人がすみやかに帰国できるよう、在鮮日本人が組織した日本人世話会の資金も凍結しました。 




北朝鮮の咸興駅前では約4000人の日本人が乞食同然に寝起きしていました。ある避難民は、ワラで編んだ袋を頭にかぶって雨にふるえながら鮮人家屋からゆうげの煙がのぼるのを見た時、家族と抱き合って泣きくずれた、と言っています。

そして咸興から移動させられた新中里(しんちゅうり)では、昭和21年1月までに日本人避難民6400名が死亡し、その後も一日50人平均で死んでいきました。 

咸興から富坪(ふうひょう)に移動させられた日本人避難民は零下15度という極寒にありながらムシロ一枚とわずかな配給しかなく、栄養失調、発疹チフスなどの伝染病で1431名が死亡しました。


 
昭和21年1月なかば、日本人共産主義者の訴えで朝鮮側の検察が避難民の状態を視察しに来ました。しかし時すでに遅しで、富坪での日本人避難民死亡率は四割に達しました。 



咸興の近隣にある興南には日本チッソがありましたが、それも北朝鮮に接収されました。その後、日本人は工場への立ち入りを禁止され、社宅を追放されて約3000名が死亡しました。 



元山(げんざん)では日本人避難民に食糧の配給がありませんでした。ソ軍にかけあっても取り合ってくれないので、日本人は使役で働くからという条件を提示してわずかな配給を得ました。そして元山と高原では約1100名の日本人が、冬を越せずに死亡しました。 



平壌の日本人避難民は昭和20年12月から食糧の配給がなかったため、2371名が死亡しました。日本人はせまい収容所につめこまれ、仕事をすることも、持ち物を売ることも、商売も許されませんでした。 
 



同じ平壌に和歌山県の開拓団がいましたが、南鮮に南下する途中で娘さんが行方不明になったそうです。それに、南下途中で死んだ家族を山に埋めたりもしているで、朝鮮で死んだ日本人避難民の数は17690名よりも、もっと多いと思います。 



鎮南浦(ちんなんぽ)では約1700名の日本人避難民が死亡しました。そのうち200名は幼い子供たちで、死因は悪性のはしかでした。このはしかで、子供全員を失った母親もいたそうです。 



新義州では発疹チフスが原因で日本人20名が死亡しました。 

日本が36年間統治しても、朝鮮の不衛生は改善できなかったのです。まるで伝染病の巣窟のような朝鮮に、日本人は丸裸で投げ出され、次々と死んでいったのです。 。。