3月29日は「八百屋お七の日」です。学校の歴史で「天和の大火」を習った人はピンとくると思いますが、1683年(天和3年)のこの日、お七という八百屋の娘が16歳にして市中引き回しの上、火炙りの極刑に処せられました。この事件の裏には叶わぬ恋に焦がれたお七の切ないストーリーがあるのです。
江戸で3本の指に入る商人の家に生まれた

1668年(寛文8年)、お七は江戸では3本の指に入るという立派な八百屋の家に誕生。両親からは溺愛され、商人の娘として恥ずかしくない教養を受けて育ちました。お七が16歳の時、後に「天和の大火」と呼ばれる江戸で大きな火事が起こり、現在の浅草から日本橋まで実に東京ドーム約200個分を焼けつくす惨事に見舞われました。
元々、円乗寺は女人禁制の寺でした。ところが、大火に見舞われた多くの人の避難所としてこの寺にみな集まっていたのです。火事という出来事がなければ知り合うはずのなかったお七と左兵衛。そして武家の次男である左兵衛と町人の娘お七ではあまりにも身分が違い過ぎました。
決して結ばれることのない二人でしたが、恋の炎は消えることはありませんでした。一目を偲んで気持ちを打ち明けるようになった左兵衛とお七。やがて江戸の町は復興し、お七も家族と共に新しい家へと帰って行きました。
後にわかったことですが、円乗寺に残されていた文書によるとお七の左兵衛への気持ちを利用したある人物により、そそのかされた形で放火という大罪を犯してしまったのではないかと言われるお七。寺に出入りしていたチンピラ風の男から「左兵衛に会いたいなら家に火をつければいい」と言われたのです。
身分違いの恋だとわかっていたからこそ

お七の家は立派な商家であったとはいえ、当時武士との身分の差が厳しく二人にとっては何をどうやっても叶わぬ恋だったのです。結ばれることがないとわかっていたからこそ、せめてもう一目だけでも左兵衛に会いたい…。思い詰めたお七はそそのかされるままに家に火をつけてしまったのです。
江戸時代、放火は殺人よりも重い罪

当時は、放火をすれば極刑に処せられました。それと知っていながらも恋する人への思いを断ち切れなかったお七。この放火によりお七は捉えられ、火炙りの刑にかけられたのです。これまでも数々の極悪人が火炙りの刑を受けてきましたが、日本で、火炙りの刑に処せられた女性はこのお七ただ一人と言われています。
お七の切ない悲恋は語り継がれている

今でも、八百屋お七の悲恋の物語は歌舞伎や人形浄瑠璃といった形で伝えられています。お七の悲恋は江戸の住民の同情をも誘うものでした。ただ、説によってはお七が吉三郎に恋をしたとも言われていますが、寺小姓の吉三郎という人物こそ、お七をそそのかしたチンピラだという記録が円乗寺には残っています。
吉三郎からあたかも左兵衛が書いたかのように見せかけた「会いたい」という偽の手紙を何度も渡されるたびにお金をせびり取られていたという説もあります。昔も今もこうした強請りや騙しは存在したのですが、そのために16歳という若き命を落とさねばならないほど追い詰められたお七を思うと気の毒な気持ちがします。



