ボッティチェリ展を記念して・・・ボッティチェリの「誹謗」とその時代背景(3)最終回 | フィレンツェ観光ガイド 加藤まり子 in 東京

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フィレンツェ観光ガイドの資格を2016年に取得しました。
現在は都内で美術の鑑賞の仕方を教えています。
詳しくはホームページから。
http://mariko-no-heya.com/

Buon giorno♪

 

 

昨日は朝っぱらからワインの記事でいささか酔っ払いそうになりましたが気を引き締めたいと思います(^▽^;)

 

 

さてさて、しばらくあいてしまったボッティチェリの「誹謗」

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1回目がこの絵の概要について

2回目が絵が描かれた当時のフィレンツェの時代背景について

そして今回はボッティチェリの人生を絡めてこの作品が描かれた背景を考えたいと思います。

 

 

 

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絵の横には「キャプション」と呼ばれる解説があります。

読むと大体こんなことが書いてあります。

・絵の技法

・絵の主題

・美術史における位置づけ

 

 

そして展覧会などでは各コーナーにこんな記載があります。

・時代背景

・画家の人生と関係人物

 

 

絵はその時代背景や画家の人生を色濃く反映しているのです。

 

 

では、ボッティチェリはどんな人生を送ったのでしょう?

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ボッティチェリが生まれたのは1445年のフィレンツェ。

この頃がどんな時代だったかというと、ルネサンス真っ只中。

ドゥオモのクーポラが完成したのがその10年前の1436年です。

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当時の最高権力者であるメディチ家の老コジモが芸術家を保護していたので、ボッティチェリは生まれた時からそんな空気をいっぱいに吸っていたと思います。

 

 

 

オンニサンティ地区の職人の家に生まれたボッティチェリ。

当時人気だったフィリッポ・リッピの工房に修行に入ります。

初期の作品には師匠の影響が見られます。

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彼の名が公式に記されるのは1470年の作品です。

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7つの徳(キリスト教の「徳」についてはこちら)のうちの「剛毅(力)」を描きました。(残りはポライウォーロが作成)

フィレンツェの商業組合から会議場の絵として注文されました。いわばフィレンツェの公式の場に飾る絵です。

それはボッティチェリの力が認められている証拠でもあり、彼にとって最大の宣伝になったと考えられます。

 

 

ここから約20年あまりがボッティチェリの最盛期です。

1475年には「東方三博士の来訪」が制作されます。

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そしてこの頃はフィレンツェ自体も最も華やかな時でした。

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当時フィレンツェ一のイケメンと言われたロレンツォ豪華王の弟ジュリアーノの騎馬試合が行われたのも1475年です。

この騎馬試合の「美の女王」に選ばれたのは絶世の美女シモネッタ・ヴェスプッチ、ジュリアーノの恋人です(二人の恋物語についてはこちら)。

そしてボッティチェリは大人気画家としてジュリアーノの旗を描きます。

 

 

 

街イチバンのイケメンに絶世の美女、そして大人気画家・・・

聞いただけで華やかさが目に浮かびます。

 

 

 

しかし花は散ってしまうもの。

1476年にはシモネッタが、そして1478年にはジュリアーノが亡くなります。

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その頃に描かれたのがこの「春」です。

美しくうら若いフィレンツェの花。それらが失われた悲しみがこの絵には反映されていると言われています。

 

 

 

ボッティチェリの最大の特徴といえばこの「ヴィーナスの誕生」に代表される非キリスト教絵画を1000年ぶりに描いたことです。

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当時は「異教」とされたこれらの絵が描かれた背景には新プラトン主義の復活があります。

ロレンツォ豪華王のお祖父さんにあたる老コジモはプラトン・アカデミーという塾を作って当時は斬新だった新プラトン主義を学者に勉強させました。

 

ボッティチェリを見るにあたって重要なのは、

・新プラトン主義(非キリスト教)がフィレンツェで論じられていたこと

・それをボッティチェリが理解していたこと

という点です。

 

 

1480年代はフィレンツェも安定しておりボッティチェリの数々の名作が生まれた時期です。

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ざくろの聖母。

 

 

 

しかし1490年に差し掛かると次第にフィレンツェに翳りが忍び込んできます。

厳格な修道士サヴォナローラの説教にフィレンツェ市民が心酔します。

彼の説教を聞いて感動して泣く人たちを「ピャニョーニ(泣く人)」と呼んだそうです。

 

 

そしてその中にはボッティチェリもいました。

 

 

 

1492年ロレンツォ豪華王 死去。享年43歳。

後継者のピエロはまだ20歳。北にはミラノやフランス、南には教皇のローマという脅威にさらされています。

サヴォナローラの予言通りフィレンツェに暗雲が立ち込みます。

そして1494年フランス軍がフィレンツェに侵攻します。

対応しきれなかったピエロはフィレンツェ市民によってフィレンツェを追放されてしまいます。

 

 

 

その頃に描かれたのが「誹謗」です。

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一般的にはこれはメディチ家を暗に批判しているのではないか、と言われています。

ロバの耳を持った王様はピエロ。フランスに攻め込まれてよく考えずにフィレンツェに不利な条件を飲んでしまい後悔する姿を表しているのかもしれません。

あるいはそれまでの新プラトン主義を庇護してきたメディチ家を批判しているのでしょうか。そしてサヴォナローラの説教を「真理」として表しているのかもしれません。

いずれにせよ、サヴォナローラの説教がこの作品に色濃く反映されていることは否めません。

 

 

 

時の人となったサヴォナローラは1497年に「虚栄の焼却」と称して贅沢品をシニョーリア広場で焼却します。

ボッティチェリも自らの作品を火に焼べたと言われています。

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ですが、そのサヴォナローラも翌年の1498年、虚栄の焼却をした同じシニョーリア広場で処刑されます。絞首刑の後、火刑に処されました。

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シニョーリア広場に残るサヴォナローラの処刑跡。

 

 

 

 

30歳の時に華々しく「剛毅」でデビューしたボッティチェリ。

サヴォナローラが処刑された時には53歳になっていました。

 

 

 

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老コジモが庇護した芸術家や哲学者たち。その中にはボッティチェリの師フィリッポ・リッピも含まれていました。

そんな華やかな時代の中育ったボッティチェリ。

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ですがそれを支えた

シモネッタも

ジュリアーノも

ロレンツォも

そしてそれに反したサヴォナローラさえもみんな失ってしまいました。

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諸行無常・・・

そんな言葉がイタリア語に存在するわけではありません。

しかし、彼が晩年に感じた気持ちを表すのにこれ以上の言葉はないと思います。

 

 

サヴォナローラが亡くなった後のボッティチェリの作品はほとんどフィレンツェに残っていません。

1504年にミケランジェロが作ったダヴィデ像の設置場所を決めるメンバーとして名前が載っているのを最後にボッティチェリの名は歴史から消えます。

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彼の作品が再び脚光を浴びるのはそれから約350年後、イギリスのラファエル前派の活動を待つことになります。

 

 

 

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1480年に描かれた傑作「書斎の聖アウグスティヌス」

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力強さと聖人の生き生きとした表情が伝わってきます。

 

 

 

それから15年。

多くの人を見送ったボッティチェリは同じ題材でこの絵を描きました。

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以前のような力強さはありません。

感じるのは暗さ、そして聖アウグスティヌスの老い・・・

でも私は何よりこの絵にボッティチェリの心を感じるのです。

 

 

晩年のボッティチェリについて残っている資料はほとんどありません。

そして彼の作品も時代のうねりの中に消失してしまいました。

我々は巨匠が最後の日々をどのように過ごしたのか想像に頼るしかないのですが、この絵はそのヒントを与えてくれるような気がするのです。

 

 

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さてさて、3回にわたって解説してきた「誹謗」

そしてボッティチェリを取り巻く時代と彼の人生・・・

絵を通して少しでも画家の、そしてその時代を生きた人々の息づかいを感じていただけたらと思います。