リラの壁の囚人たち東京特別公演を5月25日(火)18時30分公演、5月29日(土)11時公演、5月30日(日)11時、15時公演の合計4回観劇しました。
初演は1回しか観劇していなかったので、今回の再演では何回も観劇することができて、今更ながら小原先生の凄さというか素晴らしさを再認識しました。
初演のリラの壁の囚人たちを観たのは、たった1回きり。そのときは、私もまだ物事を単純というか短絡的にしか捉えていないひよっこだったんだと今になって思います。当時、題名が意図している人は、エドとレジスタンスたちだと思っていました。
今回を再演をバウホールと日本青年館で合計5回も観劇ができて、小原先生の深い考えが少し理解できたように思います。
エド
もちろん、エドは英国情報部の人間でフランスのレジスタンスへの連絡員として活動中に怪我をして、袋小路に閉じ込められる。
ピエール
エドと一緒に活動していたレジスタンス。ゲシュタポに追われて袋小路に閉じ込められる。
ルネ
エド、ピエールと行動をともにしていて、ゲシュタポに追われ袋小路に閉じ込められる。
ジョルジュ
戦傷がもとで車椅子での生活となり、袋小路に閉じ込められる。
ポーラ
婚約者のジョルジュは心が荒んでしまい、ポーラはジョルジュによって袋小路に縛り付けられる。
マリー
ドイツ軍将校の世話にならないかとの申し出を決めかねているところに、エドに優しくされ袋小路に心を縛りつけられる。
ギュンター
マリーを愛してしまったがために、祖国とマリーの間で板ばさみとなり、袋小路に心を縛り付けられる。
ジャン
ポーラを愛しているが故に、袋小路に心を縛り付けられる。
ここの住人は、夜は外出禁止令で家に縛り付けられているので、登場人物全員が囚人なんですよね。題名だけでもすごく深いです。
前回、宝塚バウホールでの観劇後に書いた感想(こちら)のほかに感じたことなどを書きたいと思います。
ジョルジュが、自分の苛立ちを歌っているシーン。バウで観た際には気付かなかったのですが、紅さんが泣いていたのです。その涙で私はジョルジュの心情が胸に迫ってきました。バウでは爆発させるだけと思って観ていたのですが、青年館ではジョルジュの苛立ちというか、思うようにならない情けなさなどを表現していると思いました。
ギュンターは、男性の住民を徴用しようとするところで、
ラ・マルセイエーズを聞いて自分の愚かさを悟ったという感じで、ピストルをホルダーにしまっていることを青年館で初めて気付きました。ギュンターの名前には“フォン”が入っていることから(プログラムには載っていないけれど、確かセリフで言っていたと思います。)、彼は貴族の血筋できっとこの戦いの愚かさに早くから気付いていたんだろうなぁと思いました。ピストルをホルダーに納めたときのマリーを見つめるギュンターの目が優しい。軍人の鋭い目ではありませんでした。
ジャンの
ラ・マルセイエーズのときの涙
行きがかり上ゲシュタポの手先となってしまったけれど、彼にも愛国心があり、良心が咎めたのだろうと推察しました。それだけ、
ラ・マルセイエーズという国歌の力が強いのかと、フランス革命時の民衆の気持ちが脈々と受け継がれているのかと、改めて思いました。
1960年のエド。彼は、きっと心をあのリラの咲く袋小路に残したままだったんだろうなと思えました。ポーラを亡くしたあと、彼は恐らく西部戦線の前線で戦い、激しい戦闘で命を落としてもいいと思いながらも助かり、周りの勧めで結婚をし、子供も生まれた。でも、心は袋小路に残したまま。バケツを蹴飛ばしてしまった音で、心が1944年にタイムスリップしたけれど、それが逆に現在(1960年)に生きていることを実感し、新しい道へと踏み出そうと決意した。そんな風に感じました。エドはもう2度とあの袋小路へは現れないし、だからこそマリーの店(パラディ)にも行かなかったのだと思いました。バケツを蹴飛ばすという何気ない行為で、1944年と1960年をリンクさせているなんて、小原先生は凄いです。
初演から22年経ち、私もそれだけ年を重ねてきた分、小原先生の思いを少しだけでも汲み取ることが出来て、こういう再演ならもっとやってもらいたいなぁと思いました。それだけ、今回のキャストは主演の凰稀かなめさん、相手役の白華れみさんを初めとした
のメンバーがうまくハマッていたのだと思います。モラン役の美城れんさんなら若い頃浮名を流したというのも納得できましたし。(初演の未沙のえるさんは、ちょっと考えづらい感じがしました。)
こんな風にいろいろと感じさせ、考えさせてくれる作品に最近はなかなか出遭えなくなってしまったのが残念です。