
こんな談志ファンがいた事を忘れないために…
彼女と最初に出逢ったのは、今から7年位前だったと思う。 彼女は仙台の学校に通っていると、
立川企画の方から紹介された。 毎回、新幹線で「談志ひとり会」に通っていた、
まだ幼さが残っていた彼女は21才と私に言っていた。東京に就職したいと相談も持ち掛けられた。
そのうち家元のお弟子さんの会にも来るようになり、「東京に出て来ちゃた」と私に住所を教えて
くれた。 家元の楽屋に行くと時々彼女も隅っこの方で若い弟子と楽しそうに、話していた事もあった。
家元の為にミュージカルのVTRのテープを買ってプレゼントしている所も私は見ていた。
決して出しゃ張らず師匠もとても可愛がってた。
「XXさん日本テレビで師匠の収録があるんだけど一緒に行きましょう」という電話もあったし、
「立川企画から誘われているんだけど、どうしょうかな?立川企画で働こうかな?」と私に相談を
持ち掛けてきた。4年位前、師匠の練馬の家の大掃除に一緒に行ったのも彼女だった、
その数カ月後に「来月は、沖縄に行くので、ひとり会に来られないの」と私に言った時、
その後ろには男が立っていた。 数カ月後にはお腹が少し大きくなっていた。
「結婚・妊娠のパーテ ィーをやってやるよ」と20人位集めて下北沢で彼女の為にパーテ ィーも
開いてあげた。その後、主婦と母親になった彼女は落語会には姿を見せなくなった。
一年前彼女は二人目の子供を生んだ事を風の便りで知った。 そして今年の2月彼女が乳ガンで
入院した事を知人に知らされた。「乳ガンなら早期発見なら大丈夫だよ」とは言ったもの、
28才の体にできた癌細胞は、凄いスピードで体内に転移してしまったようだ。初夏に
「談志ひとり会」の楽屋に、彼女は師匠に挨拶に現れた時、元気になったのかなと私も思ったのだが
後日、彼女の父親に聞いたところ、死の宣告を受けてすぐに師匠の所に行ったそうだ。
「来年になったら快気祝いをやろう」と友人達を話していたのだが、 残念28才の若さで彼女は
今年10月4日朝、永眠 お棺の中には「伝統を現代に」師匠の色紙が納められ、
仙台のイモ ねえちゃんと、ずーと思っていた彼女は頬紅・口紅で化粧をして、7年間で一番綺麗な
彼女が眠っていた、お棺の後ろには「立川談春・ 立川志らく」「立川企画」の花束が… 生前、
紺のトレーナーにジーンズ、化粧は殆どしていなかった彼女、仙台の娘さんと思っていたのは、
私の勝手な解釈で、彼女は神奈川 県二宮市の裁判官の父を持つ、良いところのお嬢様だった、
私と話す事は、いつでも立川談志の事ばかりで、一度も私生活の話はしな かった。
3才と1才にもならない二人の子供を残して、あの世で志ん生・文楽を聞いているのやらのんびりした、
オットリ型の彼女が、 妊娠・結婚・出産・死去なぜ、突然急いじゃったのかな?
四谷倶楽部の側で一緒に行った蕎麦屋、駒場東邦からの帰り一緒に入った喫茶店、
六本木の揺れるビルで一緒に見た前座の頃の「談春・ 志らく」の会、恵比寿の狭い暗い落語会、
練馬の師匠の家で一緒に飲んだビール「1月28日君の為に、また昔の仲間を呼んで、
君を偲ぶ会を開くよ、きっと君の為に大勢の友人が集まるだろう、家元は無理だけど、
君が応援していた談春・志らくはきっと来てくれると思う」
「娘は10月3日の夜、寝て朝になって呼吸をするのを忘れちゃっ たんだよ、
だからまだ夢の中なんだ」このお父さんの言葉と 「夏からはモルヒネ漬けだったんだ」
立川談志の落語を聞いていて良かった。誰も解らないだろうな~
東原亮子さん、ご冥福を……
こんな談志ファンがいた事を忘れないために…(後日談)
http://blogs.yahoo.co.jp/noutenkuma/13251669.html