だけじゃない! ゲルハルト・リヒター

「雲」 1978
この青空に息が止まる。
写真は好きだけど、
きれいなだけの写真ってあんまり好きじゃなくて。
その感覚はずっと説明がつかなくて、
きれいなことは全然、悪じゃないから
なんでなんだろうって
ずっと不思議だったのだけど。
リヒターの画集を久しぶりに眺めてたら答えがでた。
きれいなだけのものが嫌いなのではなく
きれいなだけじゃないものがより好きなだけだった。
意味分かるかな…
考えてみれば、
「きれいなんだけど○○だ」
「きれいだけど△△△な感じもする」
といった、2つ以上の性質が混じりあってるものに
いつも惹かれるのだった。
もしかすると、きれいであることさえ必要ないかもしれない。
私はまざりあってるものが好きなのだきっと。
そういえば、旅先を選ぶときも
いつも二つ以上の文化が混ざりあっている場所に魅力を感じていたのだった。
スペインは、イスラム文化とキリスト教文化の混ざり合いを見るのがテーマだった。
ヴェトナムのときは、資本主義と社会主義。
スウェーデンは、当初は誰も行かなそうなところに語学研修したかった
だけだったのだけど、いざ行ってみると、
北欧諸国特有の、「ヨーロッパの端っこ」的な、
なんとも王道になりにくい素朴な土着文化を持ちつつも、
けれど欧州全域の流れともバランスをとらなきゃならない曖昧さがよかった。
さらにいうと、ただきれいだというのは、
写真や絵の場合は正確だということとほぼ同じで、
正確さというのは、必要だけど面白みに欠ける。
だから、きれいだということ以外にも
どこかアクセントというか、変調になるものを
求めてしまうのかもしれないな。
前置きが長くなってしまった。
日曜日だからさ…
ところで、ゲルハルト・リヒターは写真家ではありません。

2005年に川村で行われたリヒター展の公式カタログ。

「モーターボート(第1バージョン)」1965
モノクロ写真を元にした、フォトペインティングで有名な画家です。
実物を忠実に描写するだけなら写真で十分なはずなのに、
リヒターの絵は、ただ風景を切り取ったものを簡単に飛び越えている。
なんでだろうなー?
しかも、写真や雑誌をもとに絵を描くっていう、
人を食ったような作風なのにね。
さっきの言い方をすると、「きれいなだけじゃない」んだろうな。
リヒターの絵は、写真と見間違えるくらい正確だ。
でも同時に、何か別の感覚が胸に浮かぶ。
リヒターに関して言えば、
「よく晴れた青空」なんじゃなくて、
無理矢理ことばにするとすれば、
「よく晴れて満遍なく光が全方位から降ってきていて、
その明るさに目がばかになってむしろ暗く感じてしまうくらい晴れた空」
な感じだ。
意味分かんないね…。
なんというか、物凄い量の光の束が降り注いでる、その動きまで
感じられるような気分になるんだ。光で空気がゆれる感じ。
その空気のゆれが描かれてる。
モーターボートはもっと分かり易くて、
「本当に風がびゅんびゅん頬を冷やしていって、水しぶきがあがって歓声が上がる」
そのそれぞれの空気のゆれが伝わってくる。
不思議と音が聞こえてくる感じはしなくて、むしろ空気の揺れだけ伝わってくる。
これを強いていうならば、
「正確な(=きれいな)だけじゃなく、その絵の持つ【空気のゆれ】をかなり意図的に演出してる」
になるかな。
カタログも画集も持ってるくせに、
絵しか見てなくて、リヒターが一体何を意図して製作したかとか
ひとつも読んでないから、すごくとんちんかんな答えかもしれないけども。

一方、こうした抽象画も数多く製作している。

こちらは、グレイだけで表現された「グレイ・ペインティング」。

リヒター展のチケットに採用された、「2本の蠟燭」1982。
これも、ちょっとした部屋の空気の動きや、
ロウの燃えかたひとつでゆらゆらと灯火が揺れてる感じが
ぼうっと浮かび上がるんだ。
それにしても、
家でぼーっと絵とか見てると必ず家の人に
「そんな実益のともなわないものの意味が分からん」と言われる。
ひどいこと言うよなあ。
テレビが面白かったり、ごはんが美味しかったりするのと同じで、
私は絵を見てあれこれ考えるのが、
好きなだけなんだけどなあ。
サベツや。