このように真理が存在を肯定するため、存在が存在するならば、世界の最初はどうなるだろうか?
ビッグバンを最初と仮定する。
ありとあらゆる真理を照らし合わせた結果、世界はあるように、あるしかない。世界のエネルギー量、世界の形状などのすべてが超越的に自動的に決定されている。そうした結果は世界に実現されていて、世界は(すでに)ある。真理が創造されていないのと同様に、真理と表裏一体の世界も創造されなくてもある、というわけだ。
存在はどこから来たわけでもなく、真理と同様にすでに存在している。この、存在に対し、「存在」はいつから存在するか、「存在」はなぜあるのか、と問うことは、「無は無である」ことはいつから存在するか、「無は無である」ことがなぜあるのか、と問う無意味さと同じである。
より具体的に言ってみよう。
仮に、世界の最初が一粒の粒子だったとする。
その粒子は最初から存在しており、だれかに作られたとか無から生成されたとかはない。真理によって「ある」しか取りえないから最初から「ある」のだ。
そして、いつからあるのか、と問えば最初からであり、その粒子が存在する以前の世界など存在しない。粒子があるから世界なのであって、世界が無いのに時間や空間は無い。我々の常識では突然、粒子が無から現れたように思えるが、そもそも時間も空間も観測者もいないのだから、突然、無から粒子が現れるなどという描写は間違っている。突然というのは、ある程度の時間幅を観測してから初めて突然という概念が発生するのだ。
良くあるのが、最初の存在以前に、無の空間や時間や神などが存在するという主張がある。しかし、ある、存在以前にもう一つの存在を規定してしまうと、それ自体が世界となってしまい、無限遡及が始まって答えとして収束しない。これがなぜおかしくなるかといえば、そもそも、無いことをあるとしてしまっているからだ。しかし、これも多少手を加えれば答えとして成立する。つまり、空間や時間や神は理由なく存在する存在であって、最初から存在する、とすればいい。筆者は神の存在を肯定も否定もするつもりもない。最初に理由なくある何か(真理や物質)はあまりにも不思議であり、それを神と表現してもなんら疑問はないからだ。
(次へ続く)
