具体的な物質はなぜ存在するのか。

存在とは何かわからないため、あくまで予想になる。

 

逆算的に推察するならば、物質は存在する、つまり、その背後に物質が存在するのが自明となる真理が存在すると予想されるのではないか。

「1は1である」「空は空である」「バナナはバナナである」といった、ありとあらゆる森羅万象、無限の同一律が世界に自動的に適用された結果、我々の世界は存在するしかないという結論になったという考えだ。

 

「素数は素数である」について考えてみよう。
無限に存在する素数を人類は計算することも、理解することも出来ない。
しかし、世界はその無限に存在する素数を、矛盾がないように自動的に完備している。

つまり、世界になぜ素数があるか分からないが、世界に素数があるならば、素数は素数になるしかない。

この素数のように、まるで全知全能のように世界はすべての数学や論理の法則を暗黙のルールとして完備しており、その条件下で、世界はあるように、あるしかない。

我々の世界が存在しているという結果からいえば、ありとあらゆる暗黙のルールの中で、私たちの世界はしっかりと成立したのである。

 

腐ったリンゴで例えてみよう。

腐った部分は論理的に成立しない部分だとする。

腐った部分は同一律でない、「無は有である」「うさぎはカラスである」「素数は素数でない」など。

そういった、腐った部分を、ひたすらそぎ落としていった結果、なんだか綺麗で食べることのできる(論理的に整合する)部分が残った。

論理的に否定できない、”なにがしか”が残った。

これを、なにもなかったことにできるだろうか?

筆者は出来ないと思うし、これこそが世界であり、存在であると思う。

否定できないことは、すなわち、ある。

 

「有」とはなにか、筆者が勝手に定義すると

「世界の全知全能の暗黙のルールによって否定されず、論理的に整合して残った事象が有である」

 

 

では具体的に、ビッグバンについて考えるとどうなるだろうか。

ビッグバンのエネルギーはどこからきて、そのエネルギー量はいったいどうやって決められたのだろうか。

 

人類にはその理由の全貌は分からないが、ビッグバンのエネルギーがあって、そのエネルギー量のその量は論理的に整合していたから存在したのだろう。

また、ビッグバンがいつからあるか、とかビッグバンがなぜ創造されたのかと問うことも無意味になる。
 

これは即ち、同一律「無は無である」ということはいつからあるのか、「無が無である」ことはなぜ創造されたのかと問うことと同じだから、ビッグバンにそういった疑問をぶつける意味がないと私は考える。

「無は無である」ことはいつでもあるし、「無は無である」ことは創造されなくてもあるしかないのだ。

「存在」はいつでもあるし、「存在」は創造されなくてもあるしかないのだ。

 

(次へ続く)